「女王国飄々」
放屁仙人邪馬台国研究巻二の5
第一章、邪馬台国への旅 ー扶桑の果て、倭の国々p、5ー
六、邪馬台国の所在地と狗奴国との戦い
女王国の支配が尽きる境界線の外側に在って、女王卑弥呼に敵対する国が在ると魏書倭人条は語る。狗奴国で在る。
狗奴国の王の名は卑弥弓呼で、官は狗古智卑狗で在る。狗古智卑狗は菊池の彦つまり、菊池国の王と為って狗奴国は、熊本県菊池郡周辺{今の菊池市、山鹿市から熊本市周辺}に国家を営んでいた可能性がある。熊本県北部の丘陵地帯は阿蘇火山から噴出された黒色土壌が豊かな農地を形成し、豊富な農業生産が行われている。此の事実から考えると、此の地方は大国・邪馬台国と戦うだけの国力は十分にあった。否寧ろ、邪馬台国の女王卑弥呼を死に追い遣って戦いに勝利を得るだけの国力は在ったと筆者は想像する。邪馬台国と同様、狗奴国も多くの同盟国や支配国を傘下に有していたのであろうか?邪馬台連合国を北九州に所在させると、狗奴連合国は南九州と云う図式仮説が浮かび上がる。南九州は隼人族や宮崎の西都原遺跡群に関係する民族や九州の中部域に棲まう人々等、可成りの高度な文化を有する人々が居た事が想像される。彼等は中国の長江下流域の呉越地方に棲まう人々や国家{三国時代は呉王朝}と交流が在った。
稲作文明は長江下流域から此の地に伝わって日本全国に広まった。米の原種とされる「赤米」等の古代米は此の地で発見された。狗奴国を、南九州の熊襲や隼人等の大和政権に滅ぼされる人々、未開の民族を充てる説が唱えられるが、筆者は彼等は優れた民族や国家で在ったと考える。
*、「其の南には狗奴国(くなこく)が在って男王が統治している。狗奴国の官には狗古智卑狗{くこちひこ、菊池彦?}があって女王に隷属していない。帯方郡より女王国に至る距離は一万二千余里{一千キロメートル前後}で在る。」
七、邪馬台国の所在地の推定
「女王国の支配が尽きる境界の南に狗奴国が在って云々」という魏書倭人条の文章と、「邪馬台国の戸数は七万戸で在ろう云々」という大人口を抱えていた事を示唆する記載を按し、更に「帯方郡から邪馬台国{女王国}に至る距離は一万二千余里」と「帯方郡から伊都国までの距離一万五百余里」を考察に加えると、邪馬台国は筑後川、矢部川流域の大平原に在った事が想像される。
更に想像を逞しくすると、今の福岡県八女郡、山門郡付近{今の八女市、みやま市、柳川市、久留米市周辺}の筑後平野を臨む台地に所在していたのでは無いかと思われる。伊都国や那国が所在した福岡県北部からの直線距離は八十から百公里、彼方此方と迂回する距離でも百二十公里前後で、魏書倭人条の距離記述に合致する。「山門」や「八女」と云う地名も倭や邪馬台、女王という「女」という文字に通じるので一考に値する。
八、女王卑弥呼の終焉と其の後の邪馬台国
此の項は、第三章「邪馬台国の歴史」に含まれるべきかも知れないが、狗奴国との戦いに敗れで女王が崩御すると同時に、邪馬台国の所在地の決定にも影響する事を考えて敢えて第一章の最後に置いた。
山々を越えて隣り合わせ?向かい合わせ?に在って自分に隷属しない狗奴国の男王と女王卑弥呼が互いに敵意を抱き、敵対した事も理解出来る。帯方太守王頎(おうき)の、「倭国の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼は以前より不和で在った」という報告を裏付けるのである。
邪馬台国と狗奴国は今の福岡県と熊本県の県境の山岳地帯を隔てて長い間、対峙していた。そして、何等かの理由で両国の間に激しい戦いが勃発し、「難升米が帯方郡から黄幡{魏皇帝軍の旗印}を假綬する」等、魏王朝の支持を取り付けた女王卑弥呼は、将軍難升米等を派遣して戦ったが、女王の死を以て戦いは終了し、邪馬台国家連合の中心となる邪馬台国に男王が即位して敗戦の後始末を行う事に為る。しかし、彼の権威不足からか?連合国同士或いは、狗奴国の支配に対する反乱が生じ、終には卑弥呼の権威を再び呼び起こす事{卑弥呼の宗女壹與の即位}によって内乱が治まり、「魏書倭人条」は筆を置くので在る。
此処に面白い事実が隠されていると筆者は思う。其れは此の戦いの後の邪馬台国の男王に関しては魏書倭人条は何も記載せず只、男王が即位した事実だけを述べる。又、常に卑弥呼の使者として魏王朝に拝謁をし、黄幡まで假賜された難升米は壹與の派遣した戦いの顛末報告の為の使節に名は見られない。恐らく狗奴国との戦いで戦死したか或いは、親魏派の太夫として女王と共に殺されたかも知れない。卑弥呼の後を嗣いだ男王が、魏の朝廷に使いを派遣して朝貢をしたと云う記載もない。其の後、勃発した内乱が壹與の即位によって治まり、倭国と魏王朝の関係が修復された事を述べるだけである。
此の事実を考察すると、卑弥呼の死は邪馬台国が戦いに敗れた事を表し、男王の即位は、狗奴国による邪馬台国占領統治或いは、狗奴王国の傀儡政権が邪馬台連合を支配した事実を物語るのでは無いだろうか?当然、狗奴国は中国の魏王朝とは交流が無く、三国のもう一方の雄、呉王朝に朝貢等の関係を保っていた事が想像される。邪馬台連合国家間の内乱とは、狗奴国の支配に対して独立を求めた反乱とも思われる。十三歳の壹與には権威を求めても無理であるが、彼女の背後には今は亡き母の遺徳と女王卑弥呼に対する人々の畏敬の念が遺されていた。母卑弥呼の権威によって邪馬台連合が落ち着きを取り戻し、邪馬台国が今まで取り続けて来た魏王朝との関係を修復する事によって国内に平和を取り戻す。母卑弥呼の栄光を背景に壹與は魏王朝に朝貢の使いを派遣して戦いの結末を報告し、今後も邪馬台国に対する支援を求めるのである。
斯くして此処で文章は第二章、「倭国の人々の風俗、生活、産物」へと続く。