「女王国飄々」
一、倭の人々の習俗
三世紀の当時、倭国の男子は顔や身体に刺青を施す習慣があった。鯨面文身で在る。此の身分に関わらず男性全員が施した習慣は、中国に派遣される太夫{大臣}を自称する倭王の高官で在っても鯨面文身を施した儘の姿で中国の朝廷に罷り出た様である。
司馬遷著「史記」には、"禹の苗裔で夏王朝の第六代王の小康の庶子無余が会稽郡に封され、文身断髪して草萊{荒れ果てた地}を坡み{堤を築いて水利し}而も邑{村}とする”と記載されるが、文身鯨面の習慣は当時、会稽郡の支配下に在った倭に伝わったもので在る。倭国の人々は海に生活の糧を海に求めた。海に潜って魚や貝、エビや蟹を捕って暮らす。刺青は人を襲う大型の魚や水禽{水鳥}が嫌うとされた。中国ではとっくに無くなった鯨面文身の習慣が、倭の地は中国から遠い為、今も尚、男性の身を彩る風習として残されているという。
倭人達の頭髪は男性は冠を被らず、楮(こうぞ)の繊維を細かく裂いて縒られた糸で結い上げてミズラ髪にしている。女性は髪を紒って曲げ上げたり、垂らしたりすると云う。衣服は縫製はされず、男性は巾の広い布を束に結んで其れを何枚か連ねて着用し、女性は単衣の布の開けた穴に頭を突っ込むだけの貫頭衣を着用する。
また、性風俗は淫靡な行為は無く、貞淑さは守られているという。後の記載には一夫多妻制と在る。
二、倭の農産物
稲作は長江中流域に始まり、原種は今も自生している。湖南省澧県に発見された水田遺跡城山遺跡は六千五百年以前の都市国家で在ったとされ、壕を廻らせた都市国家の跡は長江文明が世界最古の文明の一つで在るという。他の古代文明が全て、小麦牧畜が食糧確保の手段で在るのに対して、稲作漁撈を食糧確保の手段とする文明で在った。
「史記」によれば黄河流域の民族との戦いに敗れて{黄帝と蚩尤の戦い、五帝による三苗征服等}或る民族は長江を遡って段々畑を切り開いて稲作を続け{雲南省や四川省の少数民族}、或る民族は長江を下って今の浙江省や長江河口付近に辿り着いて其処に新たな文明を開き{河姆渡遺跡や、良渚遺跡。約六千年から四千年以前に栄えた}、更に其処から海を渡って日本に稲作を伝えて弥生文明を開かせた。
雲南省の少数民族の内には我が国と風習を同じくする民族がいる事が稲作伝来の歴史を物語る。正月に庭に松葉を一面に敷く習慣や、我が国の神社建築の屋根の最頂部の棟木の上に鰹木と呼ばれる水平横材が取り付けられるが、雲南省でも屋根に鰹木を並べた建て屋が見られる。
「江南熟れれば天下は飢えず」と云われる湖北、湖南、江西省の米作地帯の広さは大文明、其れも他の古代文明と異なった性格を持つ大文明の発祥地に相応しい。
倭の人々は稲作を行って食糧を得、衣を織る糸は紵麻{いちび麻(からむし)イラクサ科の多年草}や生糸を紡ぐ蚕や其の餌となる桑、棉花等を栽培し、緝績{紡ぎ}や細紵)こまかく織られたからむしの布}、絹織物、綿織物等を生産して得る。野生の牛や馬、羊、猛獣の虎や豹、野鳥の鵲(かささぎ)等は棲息しない様である。
彼等の武器は矛や盾、上部が長く下部の短い木弓が得物として使われる。矢は竹製で鏃には鉄や骨が使用される。其の武器の(個人)所有が無いのは中国の僻地、海南島の儋耳(たんじ)郡{今の広東省儋県の西}や朱崖郡{今の広東省瓊山県の東南。この二つの郡は共に今の海南島にある}の人々の風習と同じであると云う。此の"風習が同じ”と云う記述を以て「邪馬台国海南島説」を唱えた学者が居たが、此処で云う風習とは、"武器の所有や使用は国家や政権の責任権限で在る”という事である。つまり倭国では、身分の高い者でも武器は所有しない。此の"武器を所有しないという習慣は海南島の二つの郡と同じである”と述べるので在る。本文には「所有無きは・・・與(と)同じ」と記載される。邪馬台国に関する殆どの著作に見られる、"鯨面文身や多くの風習が海南島の二つの郡と同じである”とは原書「魏書倭人条」の何処にも書かれていない。
因みに、後の世の大和政権、大王の時代には武器は「布津の神」、今の石上神宮{天理市所在}に厳重に保管された。軍を率いて出征せんとする将軍や皇子達は「布津の神」から武器を借りて出発した。大王で在っても個人の住居屋敷に武器や軍を所有しないのは、古から日本の伝統で在った様である。
*、「農作物は禾稲(かとう){稲}、紵麻(ちょま)、蚕桑(さんそう){生糸}、緝績(しゅうせき){紡(つむ)ぎ}、細紵(さいちょ){細かく織られたからむしの布}や絹、綿等を栽培して出す。又、其の地には牛や馬、虎、豹、羊、鵲は野生しない。兵士が用いる兵器は矛、楯、木弓である。木弓は下が短く上は長い。竹箭(ちくせん)の鏃は鉄鏃(てつぞく)か骨鏃(こつぞく)で、武器の個人所有の無い事は儋耳(たんじ)や朱崖(しゅがい)と同じである。」
放屁仙人邪馬台国研究巻三の1
第二章、「倭国の人々」ー古の日本人の暮らし(p、1)ー
*「倭の男子は身分の上下に拘わらず皆、鯨面文を身に施す。古来、倭の使いが度々中国に詣でるが、使節は全て、大夫{大臣}を自称する。夏王朝{中国最古の王朝}の六代後王・少康の庶子、無余が会稽郡の太守に封じられた時、彼は断髪、刺青をして蛟龍(こうりゅう)に襲われる被害を避けようとした。刺青は大魚や水禽が厭うと云われているが、倭の漁師は潜水が上手く、潜って魚や蛤等の魚貝類を捕獲して食糧を賄うが、此の刺青を施す習慣が残り、今に至っても身体を飾る風習から刺青が彫られている様である。国や地域によって刺青の模様や彫る箇所は各々異る。或る国では身体の左に又、或る国では右に、或いは大きく、或いは小さく彫られる。尊卑によっても大小は異なる。推測するに鯨面文身の風習は中国の会稽に始まるが、倭は会稽郡が治める東の果ての更に東の果てに在る為、此の習慣は今も尚、残された様である。
彼等は淫乱な行いはせず、男子は全て、露紒(ろけい){ミズラ髪を結って冠は被らない}をしている。木緜(ゆう){膽(こうぞう)の皮の繊維を糸状にしたものとみられる}をもって髪を結い、幅広の衣を結んで束にして連ねて着用する。概して縫製はされていない。婦人の被髪は屈紒(くつけい)である。作衣は単被の様で其の中央を穿ち、頭を其の穴に貫いて貫頭衣として着用する。」