女王国飄々
四、中国への渡海 ー生け贄「持衰」の事ー
中国朝廷へ朝貢や帯方郡に詣でる場合に対馬海峡を渡海したが此の時、精進潔斎をして神に渡海の無事を祈る者を一人選んで人柱とする。人柱に為った者は梳らないので蟣虱が湧き放題、衣服は着替えず、洗濯もしないので垢で汚れ、肉は食わず、女は近づけない。宛ら、喪に服す人の様である。
玄界灘の荒海は海部人等にとっても恐怖の海だった事は、万葉集に載せられた夫の帰りを待つ妻が詠んだ歌でも明らかである。
渡海が首尾良く終われば、彼は恩賞として奴婢や財物を得るが、旅中に疾病が発生したり、暴風雨に襲われたりした場合は殺される。彼の神に対する祈りが足らず、精進潔斎を怠った事がその不幸の原因であるとされて命を捧げるのである。
*、「中国への行き来の際の渡海には恒に一人を指名する。其の人には頭髪に梳らせない。此の為に彼の頭髪は蟣虱だらけ、衣服は着替えないので垢汚する。肉食はせず、婦人を近づけないのは喪に服する人と同様で、此の人を名付けて「持衰」{衰は、粗末な喪服}と云う。もし渡海の旅が吉善に恵まれれば{うまく行けば}、彼は生口(奴婢)や財物を与えられるが、もし(途中で)疾病や暴風雨などによる被害に遭遇すれば人々は彼を殺そうとする。持衰が不謹慎の為、害に遭遇したと云うのが理由である。」
**、筆者按:「人柱の風習」:日本や中国には昔、「人柱」を立てるという風習があった。人の命を掛けた願いが神に届かない筈が無いと信じられていた。中国では「万里の長城」建設に沢山の人柱が立てられた。
"父は長柄の人柱、雉も鳴かずば撃たれまいに!”。此の哀しい歌は、流れが激しい長良川に橋を架ける工事が難渋した時、或る学者が織田信長に人柱を立てる事を進言した。"それなら、お前が立て”と一言。工事が終わっても帰らぬ父を傷んで娘が詠った哀しい歌と伝えられる。 物知り顔に、"不要な事は言うな”という誡めの歌でも在る。
三、倭の人々の生活
倭地方は温暖な気候で在る。冬でも夏でも魚などの食材を生で食う。生で魚を食う習慣には倭に渡来した当時の中国人は驚いたに違いない。飲食する場合は祭祀用の高坏に盛って手で摘んで食べる。此処で云う「菜」は食事の事である。裸足で歩く。家屋には室屋があって父や母、兄弟は別の場所に眠る。牛の血のような丹い顔料を身体に塗るのは、中国の白粉を塗って化粧するのと同じ風習である。
亡くなった人を埋葬する棺は一重で外棺は無い。土を盛って墓塚を作って埋葬する。葬儀は十日余りで喪が明けられるが、其の間は肉食はせず精進潔斎をして過ごす。喪主は大いに泣き悲しむが、喪主以外の人々は歌舞飲食をして賑やかに過ごす。一連の葬儀の行事が終われば、一族が揃って新しい墓塚に詣で、水中で禊ぎをする。中国で行う、練り絹{薄い白衣}を着た沐浴、水垢離{水を浴びて願う}の様と同じである。
*、「倭の土地は温暖で、冬でも夏でも食材を生で食べ、徒跣(とせん){裸足で歩く}をする。家屋には室屋が有り、父母兄弟は異なる場所に睡る。牛丹を其の身体に塗るのは、中国でも化粧粉を身体に塗るが、其れと同様の身体装飾であろう。飲食には高坏を用いて手で摘んで食う。亡くなった人を葬る場合、棺は有るが椁{外棺}は無い。死体は土を封じて{盛って}塚を作る。喪は十餘日で停められるが喪の間は肉食をしない。喪主は哭泣し、喪主以外の人々は歌舞飲酒をする。葬儀の一連の行事が終われば一家を挙げて塚に詣で、水中で澡浴(そうよく){禊}をする。其の様は練沐(れんよく){沐浴、練り絹を着ての水垢離(みずごり)}の様と同じで在る。」
*、筆者按:「通夜に付いて」:「魏書倭人条」に記される、「葬儀の歌舞飲酒」という風習は「お通夜」として現代に伝わる風習で在ろう。お通夜を指す言葉として「夜伽」という呼び名があるが夜伽とは本来、男女の夜の営みを云い、高貴な人の寝所やお側に仕えて夜のお相手をする事を「伽をする」と云った。お通夜の「夜伽」とは、"一夜を飲酒や乱交??乱痴気騒ぎを行って”死者を慰め、死者の祟りを抑え、遺された者の悲しみを慰める事を指すと云われる。
放屁仙人邪馬台国研究巻三の2
五、自然の恵み
倭国の海や山は豊かで貴重なものが産出する。海には真珠や青玉等の宝物が採取され、山には丹や樹木から様々なものが産出される。青玉は翡翠である。玉や翡翠は不老不死、再生をもたらす力を持つと信じられ、古代の帝王達は其の遺体全身を青玉や白玉で覆った。秦の始皇帝の遺体は白玉に覆われていると云われるし、中部アメリカのマヤの古代都市国家の王達も翡翠で全身を覆われて発掘された。西漢時代、広東省周辺地区に割拠して威を誇った南越王国の初代皇帝武帝{趙陀)}の遺体は白玉朱糸に包まれて掘り出された。彼の遺体は、墓陵を其の儘保存する博物館に眠る。
山で採取されるものは、辰砂と呼ばれる丹土{硫黄と水銀の化合した赤土で粉砕して使う}が採れる。其の他にも山に生える木々は利用され、楠や木楢、樟脳が採取出来る豫樟、くぬぎ、黐の木、山桑や楓等の樹木が繁茂し、篠竹)や葛竹の林がある。薑や橘、山椒、茗荷等の香辛料もあるが、倭人は此等の滋味を食欲増進に利用する方法を知らない。森には猿や雉が棲息する。
*、「倭の海には真珠や青玉{翡翠}が産出し、山には丹(に){丹土}が採れる。山に生える木は楠、杼(ちょ){小楢、栃、どんぐり}、豫樟(よしょう){楠、虫除けの樟脳が採取される}、楺櫪(じゅうれき){くぬぎ}、投橿(とうきょう){モチノキ、樫}、烏號(うごう){山桑、黄帝の弓の名}、楓香(ふうこう){かえで}が自生している。竹には篠簳(しょうかん){しのだけ、やがら}、桃枝(とうし){葛竹(かずらだけ)}が生えている。薑(きょう){はじかみ、しょうが}や橘、椒(しゅく){山椒}、蘘荷(じょうか){みょうが}が有るが其の滋味を利用する事を知らない。森には獮猴(せんこう){猿}や黒雉が棲息する。」
**、筆者按:最近、猿が農作物を荒らすと好く聞くが彼等の棲息地を人が奪ったとも言えるし、「魏書倭人条」の昔からの隣人でも在るのである。
第二章、「倭国の人々」ー古の日本人の暮らしp、2ー