「女王国飄々」

放屁仙人邪馬台国研究巻一の4

第一章、邪馬台国への旅 ー扶桑の果て、倭の国々p、4ー

六、世紀の大発見「吉野ヶ里遺跡」

  公元1986年「吉野ヶ里遺跡」は発見された。佐賀県と福岡県を分ける背振山地を北部に控え、有明海を南に見下ろす吉野ヶ里丘陵、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがるおよそ五十haに渡って遺構が残されいて、弥生時代の国家の状況や歴史の変遷を知る手掛かりを我々に提供して呉れた。
  「吉野ヶ里国」(筆者の仮称)は、縄文時代に村が形成され始め、村が集まって集落が拡大すると当然、国家が形成される。富の個人所有が始まって貧富の差が生まれ、特定の指導者や富を集めた家族が成長し、支配者が生まれる。弥生時代が始まったのである。
  「吉野ヶ里国」でも、邪馬台国の時代の三世紀には大きな二重の環濠が掘られ、建物が巨大化し、集落は最盛期を迎える。
人口が膨張したのか?二つの内郭が出来、弥生文化が大いなる発展を遂げる。集落が発展していくとともに防御が更に、厳重に為り、総延長が約二・五公里に及ぶ外濠が囲む範囲は約四十haに為った。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施され、見張りや威嚇の為の物見櫓が環濠内に複数個建てられた。内郭には、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂等が建てられた。
  食料を保管する高床式倉庫が多数、他に貯蔵穴、土坑、青銅器を製造した工廠の跡なども発掘された。外濠と内濠の間や内濠の内部に竪穴住居跡が百基以上見付かっている。

  三世紀の遺構として墳丘墓や甕棺が多く見られ、掘り出された多数の遺体がまとまって埋葬された甕棺、石棺、土坑墓等は住民や兵士などの一般の人々の共同墓地と考えられる。一方、二つの墳丘墓(「北墳丘墓」「南墳丘墓」)があり、こちらは集落の首長などの墓と考えられる。憤丘墓は南北約四十六米、東西約二十七米の長方形に近い憤丘{方墓}で、高さは四・五米以上あったと推定される。

「倭国の旅5
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  甕棺の中の人骨には怪我をしたり、矢じりが刺さったままのもの、首の無いもの等があり、倭国大乱を思わせる。此の戦いは卑弥呼の死後のものか?卑弥呼の即位に先立つものか?は判断が出来ないが、「魏書倭人条」の倭国内乱の記載を証明するもので在る。また、管玉などの装飾品が一緒に掘り出された。
  他にも多数の土器や石器、青銅器、鉄器、木器等が出土し、勾玉や管玉などのアクセサリー類、銅剣、銅鏡、織物、絹布片等の布製品などの装飾品や祭祀に用いられるものなどが発掘された。更に、九州で初めての発見となる銅鐸が出土した。弥生時代に関する従来の学説や考証を証明し、多くの新しい問題を提起をして邪馬台国時代を現代に蘇らせて呉れたのが「吉野ヶ里遺跡」で在る。

  学者の中には此の大発見に興奮し、"此の「吉野ヶ里環濠集落跡」こそ邪馬台国也”と唱えた者も居たが、発掘責任者の高島忠平氏は、甕棺等墳墓の数から見て吉野ヶ里の或る一時点での人口は千人位で在ったろうと推定する。つまり、邪馬台国にしては人口が少なく更に、権力者の威厳を示す遺物{鏡や剣等}が少ない事、位置が魏志倭人伝の旅程記載に合致しないという事等、"吉野ヶ里国は邪馬台国に非ず”と結論付けられた。筆者も此の「吉野ヶ里非邪馬台国説」には賛成である。

  発見された場所から推察すると、「魏書倭人条」が"女王の支配した二十一ヶ国”として名を挙げる国々の内の
対蘇(とす)国、蘇奴(さがな)国、呼邑(おぎ)国、華奴蘇奴((かなさきな)国」の内の一つでは無いかと想像する。此等の四ヶ国は文字通り、現在の「鳥栖、佐賀、小城、神崎」の各地を述べると思われる。筆者の胸をワクワクさせるのである。

  世紀の大発見と其れに続く、弥生の大発掘に纏わる余談話はこれ位にして、戦雲の気漂う
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