帯方郡から狗邪韓国迄の七千余里の路程は、(リアス式海岸に)循じて水行し、韓国の諸屯国を歷しつつ経由して或いは南行し、或いは東行し乍ら、倭の北岸{つまり、狗邪韓国に至る。距離は七千余里{約五百五十公里弱}で在る」と「魏書倭人条」に書かれている。
帯方郡や楽浪郡などは、朝鮮半島に所在する諸国の内情や、其の国々の間の距離は詳しく把握していたであろうし、海岸に沿って水行する旅で在るが、其の水は内海であり、「海岸に循じて水行する」、「韓国を歴して南し、東し乍ら」という二つの文言をわざわざ、記載している事更に、「歴して歩いて}」と云う文字を使っている事を考えると帯方郡から狗邪韓国に至る行程は全て、陸行に含めるべきである。
水行は大海を行く場合のみで在ると解釈するのである。韓国の西海岸はリアス式海岸で在る事を考慮すると、韓国内の水行は、入り江から入り江を辿るつまり、入り江毎に小国が在って此等の国々を歴する水行で在ると解釈して陸行に含める。つまり、帯方郡から狗邪韓国迄の七千余里と、末廬国から邪馬台国までの二千余里の旅が歩き或いは、輿に乗って行く陸行一ヶ月の旅なので在る。此の九千余里{七百公里余り}を陸行一ヶ月から割り出すと、一日の行程は平均三百余里{二十三公里余り}で在る。
一方、"狗邪韓国から対馬島国と一支島国を経由して倭の本土の玄関、末廬国迄の三千余里は水行十日掛かるよ!”と云う。狗邪韓国から末廬国の三千余里を水行十日から割り出すと、一日平均三百余里{二十三公里余り}と計算が成り立つ。つまり、水行も陸行も共に一日の行程は三百余里{二十三
公里余り}と算出出来る。
記録に残る欧州古代の軍隊の一日の移動距離は、古代ローマ軍は二十五公里前後、アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍の進軍速度は二十四キロ前後で在ったと伝わる。中国でも、唐代の「唐六典」には"一日の歩行距離は五十里”と定められる。唐代の一尺は三十一・一厘米で長里は五百六十米、一日の歩行距離は二十八公里と算出される。つまり、・・・・
倭国を旅行く帯方郡の使節や女王国を旅する人々の一日の移動距離で在る二十三公里は、西欧古代の大軍の移動速度や「唐六典」に規定された距離に概略、一致する。更に、後の記載から女王国と各国は頻繁な行き来が在った事が判る。倭国の本土は女王国や伊都国を結ぶ道路網は完備され、陸行一日の行程の三百余里は既知の事実で在ったと思われる。
次ぎに、"水行三千余里{二百三十五公里前後}を十日で大海を渡る”に付いて考察する。"三千余里を十日で云々”から割り出した一日の移動速度が三百余里{二十三公里前後}である。此の三千余里、実際の地図上の対馬海峡{朝鮮半島南岸から福岡県呼子迄}の二百公里前後には、対馬島の南北八十二公里と壱岐島の南北十五公里という島の海岸を辿る旅が含まれていない。此の両島の入り江沿いに行く実際の対馬海峡全域の航海距離は、魏書の記載する三千余里つまり、二百三十五公里に近くなるのではないだろうか。
更に、水行一日の平均航海距離三百余里{二十三公里弱}に付いて考察する。余談で在るが、陸行の一日の旅程の二十三公里から察するに、歩行時間は休憩を除けば実際には六時間だったと推定される。大人の歩行速度は一時間に四公里前後というのが経験から割り出された歩行速度である。此の一日の行動時間が海上移動にも適用されたと思われる。一時間に四公里前後の航行速度は二・一六ノットと計算が成り立つ。因みに、大学のボート部等の艇は十ノット以上のスピードを出すし、公園の手漕ぎボートでも三から五ノットと云われる。流れの速い海峡通過でも二ノット弱の手漕ぎ速度は十分可能な速度で在り、潮待ち、休憩日も含めて一日平均航海距離の三百余里{二十三公里余り}は妥当で在る。
以上の考察の結果を纏めると、帯方郡から女王国(邪馬台国)に行くには・・・・・。、
一、「帯方郡から狗邪韓国迄の(入り江伝いの小舟による{陸行に含めるべき}水行)の七千余里と末廬国から女王国(邪馬台国)に到る(国々の間を結ぶ街道伝いの陸行の旅二千余里)のトータル九千余里{七百公里余}の行程が一ヶ月(三十日)である。」
二、「狗邪韓国から対馬島国、一支島国を経て末廬国に至る三千余里{約二百三十五公里}が水行で、行程は十日である」と為る。
つまり、女王国へ旅する使節は、帯方郡を出発して七千余里を小舟に乗って入り江伝いに一日三百里の速度で旅をして狗邪韓国に到り、此処から渡海する大船に乗って三千余里の対馬海峡を渡って末廬国に十日を掛けて着き、末廬国から二千余里を一日三百余里の速度で歩き或いは、輿にのって女王国へ到着する。帯方郡から女王国迄の道程は一万二千余里{九百四十公里弱}で在る。斯くして女王国に無事に到着して「魏書倭人欄」は更に、記述を続ける。
女王国の官の伊支馬は古書の神々や人に当て嵌めると活目、伊久米、伊古麻で在る。副官は弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮とそれぞれ序列がある。弥馬升は御体処や皇産、御真津媛に、弥馬獲支は御体傍や御馬傍、御真木入日子{崇神天皇?}が想像されるし、奴佳鞮は仲手{仲立ちをする人、取り次ぎ役}に当て嵌まる。神に仕える女王へ訴えや国家の重要事を取り次ぐ役目で在ろうか?
此処まで述べてきた女王国に統属される国々つまり、投馬国も含めて対馬島国や一支島国、末廬国、伊都国、那国、不彌国の七ヶ国に付いては「魏書倭人条」も詳しく記載するが、以後に記載する二十一の国々に付いては国名のみの記述と為る。国名は本文をお読み頂きたい。此等二十八ヶ国が女王の支配を受けているか或いは、同盟関係に在り、此処が女王の支配が及ぶ範囲で、此より先は女王の影響下には無いと云う。
此のトータル二十八ヶ国の中に「吉野ヶ里遺跡」として昭和六十一年に発見されて発掘が為され、其の膨大な文物、遺物や大規模な遺跡等々が我々、千八百年後の世の人々を驚かせた国も含まれるので在ろうか?此の佐賀平野の東部に所在する「吉野ヶ里国」が二十一ヶ国のどれが該当するか判らない。次項では此の世紀の発見「吉野ヶ里遺跡」に付いて余談をしたい。
*、「南に邪馬台国に至る。女王が都を営む地である。水行十日、陸行一ヶ月の距離である。官は伊支馬(いしま)、副官は弥馬升(みまし)、弥馬獲支(みまとし)、奴佳?(なかて)と続く。戸数は七万余戸という事である。女王国より以北の地に付いては、,其の戸数や道程、距離の記載は前記の如く略載した。其れ以外の国々は遠く、情報が得難く詳しく記載出来ない。邪馬臺国の以遠に続く其れ等の国々は斯馬(しま)国、已百支(いわき)国、伊邪(いや)国、都支(とき)国、弥奴(みぬ)国、好古都(おかだ)国、不呼(ふこ)国、姐奴(さな)国、対蘇(とす)国、蘇奴(さがな)国、呼邑(おぎ)国、華奴蘇奴((かなさきな)国、鬼(き)国、為吾(いご)国、鬼奴(きな)国、邪(や)馬(ま)国、窮(く)臣(じ)国等の国々が在り、更に此等の国々の他にも女王国と交わりを有する国々は巴利(はり)国、支惟(きく)国、烏奴(あな)国、奴(な)国等が在って此処が女王国の支配が尽きる境界線である。」
「女王国飄々」
さて、此処からが大問題で、真剣に考察をしなければ為らない部分と為る。対馬島国から那国、不弥国迄の六国の所在地は略、推定される。問題は、「南へ投馬国迄の旅は水行二十日、同じく南方へ邪馬台国までの旅の所要時間は水行十日、陸行一ヶ月で在る」という記載である。
投馬国、邪馬台国への旅の出発点は何処か?伊都国からか?不弥国からか?或いは、他の場所からか?更に別の問題として、南行が重なる点で邪馬台国は投馬国の更に、南方に所在するのか?二国はそれぞれ別ルートの南行か?・・・・数々の疑問が浮かび上がる。投馬国に付いては前の第四項、「韓国南岸から倭へ渡る二つのルート
ー投馬国への道ー」で述べたので此処は、帯方郡から邪馬台国への渡海ルートに限って述べる。
此処で気付く事は、帯方郡から狗邪韓国、狗邪韓国から三つの大海、二つの島国を経て倭の本土に到着し、末廬国から伊都国、那国を経て不弥国に至る各国間の距離は、国毎にはっきりと里数が述べられている。又、「魏書倭人条」の本文に、帯方郡から女王国{邪馬台国}に至る距離は「一万二千余里」と記されている{第七項、「邪馬台国の所在地と狗奴国との戦い」の本文末尾を参照}。
帯方郡と狗邪韓国間は七千余里、狗邪韓国から末廬国迄は三千余里つまり、帯方郡から末廬国迄は一万余里と為る。故に「末廬国から邪馬台国に至る距離は二千余里{約百五十六公里}で在る」と為る。更に、帯方郡から女王国(邪馬台国)迄の旅程は「水行十日と陸行一ヶ月の行程で在る」と述べられる。繰り返すと"帯方郡から女王国までの一万二千余里は水行十日と陸行一ヶ月掛かるよ!”と云うので在る。
放屁仙人邪馬台国研究巻二の3
第一章、邪馬台国への旅 ー扶桑の果て、倭の国々-p、3
五、邪馬台国女王・卑弥呼様に拝謁 ー邪馬台国への道ー