「女王国飄々」
四、韓国南岸から倭へ渡る二つのルート ー投馬国への道ー
次に解決しなければ為らない問題は投馬国への旅で在る。投馬国迄の旅程は、里数は記載されず只、簡単に「水行二十日」とだけ記述される。此の記述は、投馬国は女王国に統属され、交わりを保ってはいるが、帯方郡から女王国に至る旅程上には所在せず、「対馬一支末廬航路」と異なる別ルートを航海して投馬国に至る事が窺える。又、投馬国に付いての水行の文字から察して出発点は狗邪韓国或いは、韓国南岸とするのが妥当で「陸行」という文字の記載が無い事は投馬国の所在地は内陸でなく、海岸近くに求められるべきで在ろう。つまり、投馬国へは狗邪韓国或いは、韓国南岸の津{港}から船旅で二十日の行程、約六千余里の海を行くと為るのである。{四百七十公里前後。後先に為るが、次項で算出される「一日の水行が三百余里{二十三公里}で在る」という仮説。次項、「女王陛下に拝謁」を参照}
当時、韓国南岸から玄界灘を渡って倭地方に至る航路は二つのルートが在った。第一ルートは「狗邪韓国を発って対馬国、一支国を経て末廬国に至る」航路で、第二ルートは「韓国南岸を発ち、玄界灘の真ん中に浮かぶ沖の島(沖津宮)、大島(仲津宮)を経て宗像(辺津宮)に至る」航路である。後者の第二ルート航路は、古来から海部人達によって崇拝された海の神々が祀られて居た事を考えると重要な航路で在った。沖の島は海の正倉院と称され、朝鮮半島や大陸との関係が深かった。
此の韓国南岸から宗像に至る距離は約四千余里{三百十公里前後}であり、前述の六千余里から此の四千余里を除いた残りの二千余里{約百六十公里}離れた到達点が投馬国の所在地で在る。つまり、今の宗像市周辺から二千余里を海岸に沿って旅して到着する海岸に面した地が投馬国の所在地で在る。「投馬国の戸数は五万余{一戸五人として人口二十万人前後}であろう」という記載から可成りの大国であった事。後の記載には邪馬台国の以北に所在し、女王国の統属を受けていた事が述べられる。投馬国へ行く渡海航路が対馬壱岐ルートでなく、沖の島を経る第二ルートを渡海する事を示唆する記述は、投馬国が那国等が在った九州の北海岸でなく九州の東海岸或いは、周防灘に面した地域に所在した事が考えられる。此等の条件が投馬国を捜し出す糸口と為る。
此の条件に合う所は、福岡県東部の周防灘に面した福岡県沿海地域か、大分県宇佐市辺りから別府北部の国東半島を含む広範囲の何れかの地に投馬国が所在した事が想像される。
此等の地は後項に記される様に、"女王国{此処は邪馬台連合国を指す}から東方に千餘里{七十六公里前後}の海を越えた地域に復た、別の倭族の国が在って女王国に属しない”と、"邪馬台国に統属されない倭人が暮らす地が海を隔てて在る”という記述から、投馬国は九州内に所在した事が思い付く。女王国に隷属しない倭人の国々とは豊後水道を渡った四国か?周防灘を渡海した山口県の周防灘沿いの地?に棲む倭人であった事が想像される。
投馬国の所在地に付いても、宮崎県の西都原古墳群の付近、出雲等々の説が唱えられているが、此処では詳しく論述しない。筆者は周防灘沿岸の北九州に所在させたい。処で「魏書倭人条」の投馬国に関する記載は、女王国に付いての記載の附録の様に、たったの一行で、"ホンのついでに記した”という雰囲気を感じさせる。此の「魏書倭人条」の記載の主題は女王国{邪馬台国}に付いて述べる事に在るからである。邪馬台国の所在地探しの旅は、次項と其の次の項、狗奴国との関連の項で結論付ける。
投馬国の官は弥弥で在るが、「耳、美々」に、副官の弥弥那利は「耳垂、耳垂らす」に相当する。此等の官名、「ミミ」や「ミミナリ」は出雲系や初期の皇室の名に多いという指摘も在り、"投馬国は出雲に所在した”と仮定する学者の拠り所に為っている。
*、「南の投馬国に至るには水行して二十日の日にちがかかる。官は弥弥、副司は弥弥那利と云い、五万余戸の人々が暮らしているらしい。」
**、筆者按:「戸数の記載に付いて」:此処で少し、気に掛かる事を見つけた。其れは、対馬国から不彌国迄の諸国の戸数を述べるのに「有」の字が用いられるが、投馬国と邪馬台国に付いては、「可」の字が使われる。つまり、「有千余戸」、「可五万余戸」である。投馬国と邪馬台国の「万単位の大戸数」は政庁のある都市??{城壁や都市を廻る堀、環濠に囲まれた地}の周辺、大範囲の地に散らばる農民の戸数等?も含めた国が所有する全人口で在ろうか?万余は大変大きな戸数である。「有」は「一千戸が有る」。「可」は「・・・べし」であり、「五万余戸為るべし」と読むのだろうか?意味は「五万戸前後だろう」と解釈したい。「有」と「可」の字が使われる事は、何かの暗示が潜められているかも知れない。「確実と不確実」、「確認済みと未確認」を表すかも知れない。筆者は「有千戸」は「千戸有る」と断定、「可万戸」は「万の戸があるかも知れない」と云う懐疑を表すと解釈した。
放屁仙人邪馬台国研究巻一の2
三、やっと倭の本土へ到着、そして海辺の道を行く
一支島国から更に、千余里の海を超えてやっと倭国の海岸に到着する。末廬国である。末廬国の所在地は、「魏書倭人条」が"住民は浜辺や山が迫る海に面した地に暮らし、草木が繁茂して人影を見ず、魚介類を巧みに捕らえる。海は深く、浅瀬は無い”と記述する様から、佐賀県の松浦半島呼子町付近と想像する。呼子付近は山が浜に迫って浅瀬は無いという厳しい自然の地形で、海岸は深い海に直接達し、魚港として最適の入り江が沢山控える事からも、魏書の末廬国描写に合致する。
此の呼子の辺りから東南の方角に唐津市を経て、「虹の松原」と呼ばれる穏やかな海岸を歩いて行くと糸島半島の根元、旧前原町{今の糸島市}に着く。伊都国で在る。
伊都国は、末廬国からは東南の方向に五百余里{三十九公里}で在るという。此処、伊都国は邪馬台連合国に取って、最も重要な地で在った。帯方郡から来る使節や役人が常駐する魏王朝の倭国駐在大使館に相当する出先機関が置かれた。女王国からも、「一大率」と呼ばれる監察官が伊都国に常駐し、女王に統属される国々に目を光らせていた。女王の支配国を統治し、海外と接する基点と為る地である。
此処の長官や副官は其れまでの国々とは違った高官が派遣されていた様で在る。長官は爾支で、副官は泄謨觚、柄渠觚という二人である。伊都国には、"代々の王が居て云々”と記載されるが、王は各国に居たで在ろうし、此を思うに記載される各国の官吏は女王が派遣した外交官で在る事が推測される。只、伊都国の官吏は此までの三国に駐在する官吏と名称が異なる。彼等三人、禰宜に通じる官吏は、女王に代わって帯方郡や諸韓国等へ旅立つ倭国の使者或いは、帯方郡や魏の朝廷等から派遣されて倭国に滞在した高官達が帰国する船出に際して航海の安全を祈って?神を祀ったかも知れない。重要な官で在ったし、伊都国の置かれた重要性も理解出来る。棲まう戸数は千戸と記されるが、此の国の置かれた重要性から考えると・・・。斐松之{中国の東晋末・宋初の政治家・歴史家}が「魏略」を参照にして著した「三国志」の注釈書に云う様に、万余戸{五万人前後}で在ったかも知れない。
伊都国を発つと百里{約八公里}で那国に至る。此処は東漢王朝の光武帝より賜った「漢倭奴国王」の金印で知られる国である。「後漢書」には"公元57年、倭の奴国が朝貢して朝に来駕した。光武帝は此の朝貢に対して、冊封{領地として統治を認める}の印しとして印綬を下し賜った”と載る。又、此の金印と同時代、王莽が建てた新王朝が発行した貨布と呼ばれる貨幣も掘り出されており、金印と共に北九州と中国の交流は二千年に及ぶ事が証明されている。
那国の長官は兕馬觚で島子或いは、嶼子{嶼は小島}に通じる。副官は他国と同じ卑奴母離で在る。福岡市には今も「那の津」、「那珂」等、那の字の付いた地名が彼方此方に在り、此の周辺が那国の所在地で在った事を物語る。
那国をもう少し東方に行く。百余里で不彌国に着く。福岡市の宇美に在ったという説が有力であるが、筆者は玄海町説を唱えたい。那の津から津屋崎や福間を抜けて宗像に通じる海岸辺には歴史を誇る神社が東の方向に続いて宗像大社に到る。
不彌国の官は多模で在る。古書の「玉」、「魂」は神に通じ、海神を祀る海部人達の神聖な地で在った事が想像される。官吏の多模という名も筆者の説、"不彌国は海神を祀る地で在る”を諾すると思われる。副官は卑奴母離{夷守}で千余戸{五千人}の人々が居る。
*「又更に、一海を渡る事千余里。末廬国に到る。末廬国の戸数は四千余り{一戸五人として二万人前後}で住民は浜辺や山が迫る海に面した地に暮らす。草木が繁茂して人影は見得ず、魚介類を巧みに捕らえる。海は深く、浅瀬は無い。彼等は潜って魚介類を獲る。東南の方角に陸伝いに行く事五百里{約三十九公里}で伊都国に至る。官は爾支(にき)、副司は泄謨觚、柄渠觚と呼ばれる。千余戸の住民が居住していて代々の王が統治する。此等の国々は皆、女王国{邪馬台国}に統属される。伊都国は又、帯方郡から往来する郡吏使が常に駐まっている所でもある。伊都国から東南の方向、百里{八公里前後}で奴国に至る。那国の官は兕馬觚、副司は卑奴母離と云う。有する戸数は二万余である。東に行く事百里{八公里}で不彌国に至る。官は多模、副司は卑奴母離で千余の家がある。」
第一章、邪馬台国への旅 ー扶桑の果て、倭の国々p、2ー