対馬、一支両国共に食糧が不足するので末廬国や伊都国に船で渡り、海産物(対馬国)や竹細工、木工製品などの産物(一支国)を穀物等に換えて食糧を得た。対馬と一支の間の海{対馬海峡東水道}は特に、「瀚海」と呼ばれた。広大な沙漠の如き恐ろしい海と云う意味で在る。大海原、日本海を指したと解釈できる。海を知らない内国人の魏の使節にとっても、彼等を運ぶ船を操る海部人達にとっても危険、此の上も無い船旅で在った。
  第二章に、帯方郡に向かう船旅の描写に「持衰」という人が撰ばれて船を守る光景が述べられるが、「持衰」とは、海神に捧げられた生け贄で在った。生け贄を立てて渡らねば為らない恐ろしい海であった。手漕ぎの船や帆を張っただけの小さな船で、海部人等も畏れる海流が激しい海を渡るのである。潮流に流されて其れこそ、「瀚海」に放り出されないとも限らない。

*、「此処で始めて海を渡る事千余里{約七十八公里}、対馬国に至る。対馬の官は卑狗{彦}、副司は卑奴母離{夷守}で、其の国は絶海の孤島に居在する。面積は方四百余里{約三百十平方公里、実際は七百平方公里}で其の地は山が険しく海に迫り、森は深く、道路は獣路の様に細い。戸数は千余りで良田は無く、海産物を食って自活し或いは、南北に船を操って市に出掛け、物々交換をして食糧を得る。
  又、南に海を一つ渡る事千余里、此の海の名は瀚海と云って一大国{壱岐国、「大」は「支」の誤字?一支に至る。此の国の官も卑狗、副司は卑奴母離と称する。面積は方三百余里{約二百三十平方公里、実際は百三十四平方公里}で竹や木々の生える叢林が多い。三千前後の居家が在る。田地は段々畑で耕作はしているが、食糧は不足する。対馬国と同様、南北に行って市糴{市で物々交換}して食糧を得る。」

**、筆者按:此の対馬壱岐間の航路を表現するのに、沙漠の様な恐ろしい大海原を言い表す「瀚海」という文字をわざわざ、使用している事は対馬海峡ルート以外の大海原、玄界灘を行く航路のあった事、後に記す「韓国南岸から玄界灘を漕ぎ渡って沖の島に至り、大島を経て宗像に至る」ルートの存在を述べた事が想像される。{第一章第四項、「韓国南岸から倭へ渡る二つのルートー投馬国への道ー」を参照}

[女王国飄々」

2,大海を渡る

  狗邪韓国を発てば朝鮮半島を離れ、倭の本土へ渡る旅が始まる。千余里(約七十八公里)の船旅で対馬島国である。但し、古代には正確な速度計も地図も無く、船頭や漕ぎ手の海部人の感覚に頼らざるを得なかった。実際には、対馬海峡西水道の距離は約五十公里である。対馬島は南北八十二公里、東西十八公里と細長く、面積は約七百平方公里で在る。又、壱岐島は南北十七、東西十五公里である。「魏書倭人条」にはそれぞれ、方四百里{約九百八十平方公里}と方三百里{約五百五十平方公里}と記載される。
  千余里で一支島国{壱岐島}更に、千余里で倭国の本土、末廬国{佐賀県松浦半島}に上陸する。実際の対馬海峡{韓国南岸から呼子付近の松浦半島北岸、つまり「魏書倭人条」の狗邪韓国から末廬国の直線距離は二百公里前後で在る。「魏書倭人欄」が述べる距離の約二百三十五公里は、対馬国と一支国の入り組んだ海岸を辿る事を考えると大きな差は無くなる。
  対馬島国も一支島国も行政長官は卑狗と呼ばれる。此は「毘古、彦」で後の大和時代には各地方長官・国造を「彦」と称したが、其れに相当するものであろう。副長官は卑那母離と呼ばれる。此の卑那母離は夷守{辺境守備部隊の将軍、軍人}で在る。官に付いてはそれぞれ国によって異なるので其の都度、考察をする。

  邪馬台国への旅は帯方郡から始まる。倭の北岸、朝鮮半島の最南端に在る狗邪韓国に到る七千余里の旅で在る。帯方郡は、東漢王朝時代、楽浪郡の南部を分割して独立して其の後、魏王朝が楽浪郡と帯方郡を朝鮮半島の経営の拠点とし、朝鮮半島の諸国や倭国との交流窓口とした。以後、半島の韓族や倭族と魏王朝の連絡窓口の役を務めた。帯方郡は、今の韓国京城市から北朝鮮の開城市付近に所在したとされる。
  狗邪韓国は韓国南岸域、今の韓国慶尚南道の金海,釜山付近に所在したとされ、「魏書韓条」に記載される国々の中に狗邪韓国の文字は記載されず、倭国の領域に在ったとされる。此は「魏書倭人条」の記述、「倭の北岸に云々」から魏王朝は韓国の南岸地域を倭国の領域と認識していた事が判る。

*、「倭国の人々の棲まう地域は帯方郡の遙か東南の大海の中に在って、各々の国邑は山々や島々から成り立っている。遙かな昔には百餘小国に分立をしていたと云う。漢の時代に朝貢して朝廷に朝見した者がいた事が知られているが、彼等の話から想像すると今は三十国前後の分国に別れた国家から成り立っている様である。帯方郡より倭の国に至る路程は、{リアス式海岸に}循じて{沿って}水行し、韓国の諸屯国を経由して或いは南行し、或いは東行し乍ら、倭国の北岸つまり韓国の最南端の狗邪韓国に至る。距離は七千余里{五百五十公里}で在る。」

**、筆者按:此処で中国の距離の測定に付いて少し、説明をする。帯方郡から倭の諸国への旅、諸国間の移動距離が詳しく記載される。邪馬台国の所在地を吟味する為にも重要な事項で在り、余談を許されたい。
  古代中国では距離の単位として「里数」が用いられ、「短里」と「長里」と云う二通りの距離測定単位が使われた。山や古墳や城邑等の大きさには長里が用いられ、都市や国等の地域間は歩数が測定の基準で在った事から短里が使われた。距離を測る「一歩」は二歩「左右の足歩」が基準で在る。「魏書倭人条」も国家間の距離は短里で記載される。「三国志」が書かれた晋王朝時代の一長里は四百十四米で在る。周牌を使った「千里一寸の法」から実測された晋代の短里は「78.3米」で在る。因みに、基本となる一尺の長さは王朝毎に異なるが、晋時代は23センチメートルで在った。現在の中国では一米は三尺、一里は約五百米とされる。此処は「三国志」が著作された晋代の尺寸に従って、23厘×6尺×300(歩)が長里(414米)で在る。

「女王国への旅」巻二
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放屁仙人邪馬台国研究巻二の1

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第一章、邪馬台国への旅 ー扶桑の果て、倭の国々ー

1,帯方郡から倭の玄関・狗邪韓国へ