晋書は続いて、"円丘と方丘を南北郊{郊:天地の祭祀、冬至は南郊に、夏至には北郊に詣る}に併せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊{南北郊}に合わす{従来、円丘と方丘の場所を分けて冬至と夏至に行っていた祀りを南北郊、一箇所で行う}”と述べる。此の記述は前方後円墳の興りを想像させる卑弥呼の陵墓の完成と大規模な葬儀の様を報告する。
壹與の政権が強力で在り、彼女も卑弥呼に見劣りしない外交能力を持っていた事と、従来に無い墓陵の造営と祭祀の開始が覗われるからである。其の後の倭国に付いて中国の史書が記載する処を紐解く・・・・。
唐の貞観三年{630年}に姚思廉が成立させた「梁書」には、「其の後復た男王立ちて、並んで中国の爵命を受く」と、臺與を後嗣して男王が倭王に即位し、晋王朝の皇帝から「倭王」の爵命を受けたことが記されている。
五代の後晋{936年~946年}劉向の手になる「旧唐書」東夷伝には、「倭国は古の倭奴国で在る。・・・・・・日本国は倭国とは別の種族である。日本は東方の日が昇る位置に在るので「日本」と名乗った。或いは、倭国は自ら名が雅で無い事を嫌って日本と改名したと云い或いは又、日本は曾て小国で、倭国の地を併合した」と述べる。「旧唐書」から、二つの歴史的重要事が読み取れる。一は、倭国は昔から中国に朝貢をしていた倭の奴国つまり、北九州に在った邪馬台連合国家を指し、倭国と日本国は別所に存在した種族の異なる国家である。日本国は日が昇る東方に在った”。二つ目は、倭国が倭という名を嫌って日本と国号を改め、昔は小勢力に過ぎなかった日本国{大和政権?}が倭国を併合した”と云う。筆者は敢えて日本国を大和政権と想像したが、中国の史書の記す日本国が大和に所在した国家、大和政権を指すかは更なる研究が必要であろう。日の昇る地つまり、倭国から見て、"東方に在る、日の昇る地に所在する国家で在る”とのみ、読み取れるからである。
宋代に欧陽脩(おうようしゅう)によって1060年に編纂された唐王朝の正史「新唐書」には、「日本と云う小国を倭国が併合し、其の名を名乗る」。又、「筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となった」と記載される。「神武が大和を云々」の後に歴代の天皇名が記されるが、此の文言は「日本書紀」を転記したものであろう。
李大師、延寿父子によって編纂された南北朝の宋、斉、梁、陳各王朝の歴史書「南史」によれば、"東晋王朝、安帝の義熈九年{413年}倭王讃{日本書紀には履中天皇、古事記には仁徳天皇と記載}が使いを派遣して朝貢する”という記載が在り、此の後、"珍{反正天皇に充当}、濟{允恭天皇}、興{安康天皇}、武{雄略天皇}と続く倭の五王による南朝諸王朝への朝貢、册封が繰り返された”とある。
此処に記される「倭云々」或いは「倭王」と云う文字から考えるに、「新唐書」の"倭が日本を併せ、国名を日本と変号した”と思われる。「旧唐書」にも"倭が其の名を悪(きら)って「日本」に改名した”と載る。
此等多くの中国の史書によれば、晋王朝の武帝の泰始二年{266年}の壹與の晋王朝建国祝賀朝貢、其の後の男王の倭王即位と爵命授受から、東晋王朝安帝の義熈九年413年}の倭王讃の朝貢の間の約百五十年足らずの間に、日本列島が統一された事が想像される。此の統一を果たした国は倭国で在るか?旧小国日本国で在るか?は両唐書の記述は相反する記載であるが、日本列島が此の百五十年の間に何等かの手段で統一され、中国南朝の各王朝への朝貢と皇帝から册封を賜った大王達によって支配が確立され、前方後円墳文化が日本列島を覆ったと想像される。
斯くして日本列島が徐々に統一されて国家としての秩序、体制を整えるのである。
「女王国飄々」
五、「エピローグ」 ー独立戦争、壹與の女王即位ー
戦争に敗れ、女王卑弥呼が薨去した邪馬台国には、男王が即位した。しかし、邪馬台国に連合する諸国は新王に対して不満を持ち、内乱が勃発したと云う。此の事実は第一章にも記したが、戦いに勝利した狗奴国による邪馬台国直接占領支配か?或いは傀儡政権の樹立か?或いは狗奴国の意を汲んだ邪馬台国の誰かが支配者に即位したか?が疑問点として考え付く。外交でも従来の親魏政策が狗奴王国の命令によって親呉政策に変更させられた事は十分、納得ができる。
更に一つ想像を逞しくする。後に、女王に即位した壹與(いよ)が、"張政(ちょうせい)らの帯方郡帰還に伴送させて、率善中郎将掖邪狗(ややこ)を団長とする使節を魏の都に派遣して戦争の顛末を報告した云々”と云う記載が在り、此の内乱の頃には未だ、帯方郡の辺境守備部隊将軍張政等が未だ、倭国に滞在していた事が想像される。彼等は親呉政策に対する倭国の内乱を指導した事も想像される。
此の混乱は、偉大なる女王卑弥呼を失った悲しみを人々に覚えさせ、卑弥呼即位以前の戦乱の時代の恐怖を思い出させ、女王卑弥呼の威光を復活させる事によって混乱が収束する。卑弥呼の宗女壹與{卑弥呼の一族の女、卑弥呼の後継ぎ、卑弥呼は神に仕える身で処女の筈、子は居ない}が国中の支持を受けて選ばれ、新女王に即位する。
新女王壹與は、帯方郡の将軍張政等が帰還するのに送伴させて、中国から率善中郎将という位を假綬している太夫の掖邪狗を団長とする使節二十人を派遣して魏王朝の朝廷に戦争終結を報告するので在る。
斯くして、「三国志魏書東夷伝倭人条」の記述は終筆と為るので在る。
*、「卑弥呼の後継者として男王を立てたが、国々は其の王に服従せず、再び乱れて誅殺し合った。此の戦乱で殺された者は千餘人を数えた。其処で倭人達は復た、卑弥呼の宗女壹與{235年生、没年不詳、「梁書北史」には臺與(とよ)と記載さる}、齢十三歳を立てて王に即位させた所、遂に国中の戦乱は治まり、平和が戻った。張政等は檄告{宣戦の宣言、此処は魏が後ろ盾に為る宣言}を以て壹與を喩し、壹與は倭の大夫兼中国の率善中郎将掖邪狗等の使節二十人を派遣して政等の帰還を送供させた。そして{戦乱の終結を報告する為に}京都の朝台{都の皇帝の政庁}に詣でさせ、男女の生口{奴婢}三十人を献上し、白珠(はくしゅ){白真珠}五千個、孔青大句珠(こうせいだいくしゅ){大型板状の勾玉}を二枚、異文雑錦(いもんぞうきん){異国の模様のある錦織り}二十匹を貢献したのである。」
放屁仙人邪馬台国研究巻四の4
六、其の後の倭国ー倭国から日本国へー
此の項は「魏書倭人条」とは関係は無い。其の後の古代日本、倭国から日本国へという歴史の移り変わりを中国の史書に読み取ったコーナーである。邪馬台国大和所在説に一矢を放つコーナーでも在る。暫く、お付き合いを願いたい。
女王卑弥呼の死による邪馬台国と狗奴国の戦いの終結、倭国の大乱の再勃発、新女王壹與の即位と魏王朝との外交復活・・・・という倭国の激動の時代に呼応するかの様に、中国でも大きな動きが興っていた。列記すると、265年魏王朝から帝位の禅譲を受けた司馬炎が晋王朝を建国する。其の頃には三国の一方の雄で九州南部に影響力を持っていた呉王朝も昔年の勢いは無く、滅亡寸前に在った。呉王朝は277年滅び、三国は一国に帰する。
「魏書倭人条」以後の中国と倭国、新たに登場をする日本国との接触を中国の史書に訊ねて試ると・・・。
「晋書」武帝紀に、晋王朝建国間際の泰始2年11月5日"倭人来たりて方物(特産物)を献ず。倭の女王は重譯して貢献する”という記載があり、新王朝の建国に敏感に反応して建国を祝賀すると同時に、朝貢をして"倭国の代表者としての地位の保全を保証して貰う”と云う倭国の新女王のしたたかな外交努力を知る。
此の使節を派遣した女王壹與は年齢は三十歳前後であり、押しも推されもせぬ倭国の女王に相応しい外交を展開し、国家を統治する能力を大いに発揮していた事が想像される。新女王二度目の朝献である。
第四章、「倭国の歴史」ー親魏倭王(p、4)ー
女王国飄々ー完ー