「吉野ヶ里遺跡」で発掘された墳墓の実測値は南北約46米、東西約27米の長方形に近い憤丘{方墓}で、高さは4.5米以上あったと云う報告が為されているが、此の吉野ヶ里の墳墓の長径45米という報告からも、"女王卑弥呼の墳墓の経百余歩”という魏書倭人条の記載は為る程と頷く事が出来る。また、彼女の墳墓も吉野ヶ里墳墓と同様の長方形の方墳が築かれた可能性が強い。殉死させられた奴婢は百余人で在ったという。正に国家を上げての大葬儀が営まれた。塚は冢の俗字である。
  此の邪馬台国と狗奴国の戦いを示唆する文言の後、卑弥呼の後を男王が立つが、”国々は男王に従わず、相争って死者千人余を出した”という記載が在り、”卑弥呼の宗女壹與を立てて戦乱が収まった”と云う。
  卑弥呼の墳墓造営や葬儀が営まれた時期は記載されないが、内乱中は此の様な大規模な土木工事や国を挙げての大行事を開催する事は出来ない。内乱が収束して壹與が新女王に即位し、平和の到来を国の内外に宣言する意味からも、前女王卑弥呼の葬儀、墓陵造営を大規模に営んだ。そして、宗主国魏の朝廷に戦争の顛末を報告する為に率善中郎将掖邪狗を団長とする二十人もの大使節団を派遣するので在る。

  此の十八年の後、晋帝国創立を祝う朝貢使節が派遣される。つまり、「晋書」武帝紀、泰始二年{226年}の記載に、"倭人来たりて方物{特産品}を献ず”と在り、続けて、"円丘と方丘を南北郊
{郊:天地の祭祀、冬至は南郊に、夏至には北郊に詣る}に併せ、二至(冬至と夏至)の祀りを二郊に合わす”と云う記載があり、前方後円墳の興りを記したものとされる。正始八年{248年}の帯方郡太守王頎による倭国と狗奴国の戦いの顛末報告から十八年後という時期を考慮すると或いは、女王卑弥呼の墓陵の完成を報告した記載で在るかも知れない。若し仮に此の朝貢が卑弥呼の陵墓の完成を報告し、其の墓陵が前方後円墳で在ったとしても、多くの先生方の唱えられる邪馬台国大和所在説を証明するもので無い事は明らかである。

*、「倭国の女王卑弥呼と狗奴(くな)国の男王卑弥弓呼(ひみくこ)は以前より不和で在った。倭国は載斯(さし)、烏越(あお)等を遣いとして帯方郡に詣で、互いに攻撃している状況を説明させた。帯方郡の吏は塞将の曹掾史(そうえんし){国境守備官}の張政(ちょうせい)等を派遣して詔書と黄幢(きはた){黄色の旗}を因賚(いんらい){下げ与える}して難升米に拝假{貸し与え}し、檄告(げきこく){召し文、戦いの触れ文(宣言文)、転じて諭告{さとし}を為して之の戦いを喩した。此の戦い{邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の卑弥弓呼の間の戦い。「其の六年、倭の難升米は黄幢(こうばん)を詔賜され、郡に付して假綬さる」と記載が在るので正始六年の事であろうと推察。黄幢(こうばん)を假賜された難升米は女王軍を率いる将軍為らんや?}で卑弥呼は崩御し、大いに冢(ちょう)を作営した。此の冢の直径は百餘歩{百三十八メートル}で、殉葬させられた奴婢は百餘人と云う。」


**、筆者按、「倭錦と絳青縑」に付いて:倭錦は緯(ぬき){横糸}のみ色糸を使って、地色や柄を表現する日本独特の錦。 六綾(ろくあや)という組織で織る。表面上に斜線が浮かび上がるのが特徴であり、絳青縑は縦糸と横糸が異なる色糸{赤、青}で織られた絹織物を云うが、此等の高度な織り、中国にも無かった技術が已に、卑弥呼が女王として君臨した時代(約1750年昔)の我が国で行われていて其の織物を朝貢品として中国に持ち込んだ事は驚嘆に値する。又、シルク織りが我が国に伝えられたのは千八百年以前と云われているが、我が国の技術進展の早さに驚かされる。一方、シルクの我が国への伝来の千八百年以前説が正しいのか?もっと以前では無かったのか?とも疑われる。西、東漢王朝の興滅の狭間時、王莽による政権奪取の前後に那国の朝貢の事実があり、其の頃に中国で発行された貨布が我が国で発見される等の事実は其の頃にシルクが我が国にもたらされた事を物語る可能性も窺い知れるのである。

**、筆者案:更に「シルク織物」に付いて蛇足的談義{脱線話}:4500年から5000年以前に中国で始まったシルク生産は、約1800年以前に我が国に伝来したという説{此の説には疑問が残る事は上記の、筆者按「倭錦と絳青縑」に付いての欄で前記した}が定説とされるが、此の「魏書倭人欄」の記述によって、シルクが伝来された半世紀後の卑弥呼の時代{記述は244年}には、高度な技術が必要な倭や絳青縑というシルク製品を織り出す技術を会得し、其れをシルク先進国で在る中国に、朝貢という手段では在るが、送り出していた事が判る。
  因みに、此の時代から約五百年後の奈良時代には、我が国と中国のシルク輸出量の対比は四対一の割合で我が国から持ち出されるシルクが圧倒的に多く更に、中国も加えた周辺諸国に対するシルクの輸出対比は二十六対一で在ったという研究結果が報告されている。当時の日本は如何にシルク生産が盛んだったかが判る。遣唐使節の人々には身分によって水主に至る迄、シルクが支度金として支給された。此の事実は、シルクが中国で貨幣の代わりとして用いられた事が判る。明日香から奈良時代の日本人は中国にシルクを持ち出し、彼の国の文化{書籍や知識、科学技術等々}を持ち帰って絢爛たる平城の都を築くのである。中国の某学者は、奈良時代の日本から中国へ行く道を「シルクロード」{絹の道}、中国から日本へ帰って来る道を「ブックロード」{文籍(ぶんせき)の道}と名付けた。

四、女王卑弥呼の死と敗戦

  正始八年{248年}、帯方郡太守王頎が都に上って倭国と狗奴国の戦いの顛末を報告した。此の前後を考察すると・・・・。
  正始六年{246年}、倭国は狗奴国との開戦の決意を帯方郡に上申し、同年、帯方郡は倭の難升米に黄幢を賜假して邪馬台国に味方する旗色を鮮明にした。此の様に倭国に戦雲が漂い始めた事が述べられる。
  斯くして遂に、此の年の前後に、邪馬台国と狗奴国との戦いが勃発し、女王卑弥呼が死去して戦いは終わる。女王が死すという事は邪馬台国が敗れたという事であろう。恐らく黄幡を假綬された難升米も戦死したと想像される。此は、「難升米に黄幢を賜假」したという文言は、難升米が女王卑弥呼の重要な臣下で在って此の戦いでも重要な役割、例えば邪馬台連合軍を率いる将軍の様な役割を果たしたのでは無いかと想像されるのである。黄幡を賜假された以降に彼の名の記載が一切見られない。という事は、女王卑弥呼と共に死去した可能性を想像させる。後に、壹與が、帰還する帯方郡の将軍張政等に送伴させ、魏の朝廷に戦争終結報告の為に派遣した使節の中にも難升米という名は無いという事は、彼が既に此の世に居なかった事を知らしむるのかも知れない。
  死んだ女王卑弥呼の埋葬に、大いなる冢(ちょう)が築かれる。経{差し渡し、長さ}は百余歩(138メートル)の大墳墓である。{一歩は六尺で、三国志が書かれた晋代の一尺は0.23米、つまり一歩は1.38米、此処は長さ138米の円墳或いは方墳を指す。

「倭国の歴史」巻四
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「女王国飄々」

放屁仙人邪馬台国研究巻四の3

第三章、「倭国の歴史」ー親魏倭王(p、3)