三、「親魏倭王」ー卑弥呼中国へ朝貢ー

  此の項から"倭国、女王卑弥呼と魏王朝の関わりが報告され始め”、「邪馬台連合と狗奴連合との天下分け目の戦い」へ歴史は変動する。そして、次の第四項「女王国の敗北と卑弥呼の死」、「狗奴国の邪馬台国占領支配と魏王朝との関係断絶」、「内乱或いは、邪馬台連合国の人々による狗奴国支配に対する独立戦争」、「卑弥呼の宗女・壹與の女王即位と内乱終結」、「魏王朝との関係修復」へと倭国の歴史は激しく揺れ動くのである。詳しくは現代文翻訳をじっくり読んで欲しい。此処は年代別に事件を箇条書きする。
  最初の記載は、景初二年(238年、但し、景初三年の誤りとされる)、卑弥呼は太夫難升米等使節を帯方郡に送って、中国の天子に朝献{朝貢}の許可を求める。
  景初三年(239年)12月、倭王の朝貢申し出に対して魏王朝は皇帝の詔書を下し、多くの賚賜
{らいし、差し下されもの}の品々を下賜して卑弥呼に「親魏倭王」という称号を与え、印綬{金印と紫の組紐}を下し、倭国は魏の支配下に在る事を認可する。
  正始元年(240年)、帯方太守が中校尉梯俊等を派遣して朝廷から倭王に下された賜書印綬、賚賜を倭王に賜与する。倭王は使を派遣して上表して此の恩詔に答謝する。
  正始四年(244年)、倭王は復た大夫の伊声耆、掖邪狗等八人を派遣して朝貢をする。
  正始六年(246年)、倭の太夫で、魏の率善中郎将の位を持つ難升米は黄幢
{暦注の八将神の一、軍陣守護神象徴、黄は皇帝の色}を詔賜され、帯方郡経由で假綬される。
  正始七、八年(248年)、太守王頎が帯方郡の長官として京都に到り、倭と狗奴国の戦争の勃発と顛末を魏の朝廷に報告した。

  此の様に「魏書倭人条」は、魏王朝と邪馬台国の関係を述べるが当時、魏王朝と天下を争う呉王朝も、積極的な海外進出を展開していた。其の動向を列記すると・・・。
  黄武四年(黄武:呉王朝の年号、226年)、交州
{ベトナム北部}を直轄領にする。
  黄龍二年(230年)頃、夷州
{台湾}、亶州{琉球諸島}に進出を計り{「三国志呉書」に"将軍衛温(えいおん)、諸葛直(しょかつちょく)を遣り云々”の記載}更に、遼東の公孫氏に書簡を送って魏王朝を挟撃する事を依頼する等、積極的な東方進出を計っている。
  此の様な呉王朝の積極外交の記録を読むと当然、当時の倭の狗奴国に対して、呉王朝の何等かの強い絆や交流が在った事は想像が付く。


*、「景初二年六月{景初は魏の明帝時代の年号、238年}、倭の女王卑弥呼は大夫の難升米等を遣って帯方郡に詣で、中国の天子に詣でて朝献{朝貢}したい旨を求めた。帯方郡の太守劉夏(りゅうか)は彼の吏将を遣わして京都{都}に難升米等を送詣(そうし)した。
  其の年の十二月、詔書を倭の女王に報じて謂うには、"親魏倭王卑弥呼に制詔{みことのり}する。帯方(郡)の太守劉夏は使をつかわして汝の大夫難升米、次使都市牛利(としごり)を送供{供をして送り届ける}し、汝が献ぜし男生口{奴、男性奴隷)四人と女生口{婢、女性奴隷}六人、班布(はんぷ){斑(まだら)模様の布}二匹二丈{匹:反物を数える単位、二反(二丈)続きの布地を一匹と云う。此処は幅一尺、長さ六十尺の布地}が京都に奉到(ほうとう){奉って到る}した。汝の居在は逾遠(ゆえん){遙かに遠く}なるも乃ち、使いを遣わせて朝貢せるは是、汝の忠孝なり。朕は甚だ汝を哀慈(いつく)しむ}する。今是を以て汝を「親魏倭王」と為し、金印紫綬{金印と紫の組紐}を假{貸し与える}す。装封{荷造り梱包して封印する}して帯方郡太守に付して汝に假授する。其れを以て種人{種族の人々、此処は倭人}を綏撫(すいぶ){なつかせる}し、勉めて朕に孝順を為せ。汝の使い難升米と牛利は遠路を渉り、道路{旅路}に勤労{勉め}を為す。今、難升米を以て率善中郎将(そつぜんちゅうろうしょう){宮城護衛武官の長}に、牛利を以て率善校尉{皇帝の護衛や軍事を司どる官}の位に封じ、銀印青綬{銀印と青の組紐}を假し、引見して労賜{皇帝が引見して懇ろに労(いたわる}して還り遣る{帰還させる}。今、絳地交龍錦(こうぢこうりゅうにしき){厚絹の龍を二頭配した錦織り}五匹と降地縐粟罽(すうぞくけい){縮織りの毛織物}を十張り、茜降(せんこう){茜色の紬}を五十匹、紺青(こんじょう){紺色の織物}五十匹を以て汝の献ぜし貢直{貢ぎ物}に答える。又、特に汝には紺地句文(こんぢくもん)錦{紺地の曲がり文様の錦}を三匹、細班華罽(さいはんかけい){細かい斑華模様の毛織物}を五張り、白絹{白地の絹織物}五十匹、金八両{一両は十三・五グラム、金八両は砂金一袋、百八グラム。}、五尺{晋代の一尺は〇・二三公尺、五尺は一百十五厘米}の刀剣を二振り、銅鏡一百枚、真珠と鉛丹{四酸化三鉛、橙色をした赤色顔料}を各五十斤{一斤は0.64キログラム、一斤は十六両、32キログラム}を賜る。此等は皆梱包して封印し、難升米と牛利に付託する。彼等が還り到れば録受{目録と照合して受け取る}せよ。其れ等の悉くを汝の国中の人々に開示し、我が国家が汝を哀しむ事を知ら使む可し。斯れ故に鄭重に汝に好物を賜う也。”
  正始元年{魏斉王・曹芳(そうほう)時代の年号、240年}、帯方郡太守の弓遵(きゅうそん)が中校尉梯俊(ていしゅん)等を派遣して賜書印綬を奉じて倭国に詣でさせ、此等の奉物{賜書、印綬}を倭王に拝假(はいか){王に任ずる旨の金印を假して拝受させる}させ、併せて賚詔して金、帛{白絹}、錦罽{錦の毛織物}、刀、鏡、その他採物{色取り取りの宝物}を下賜した。倭王は此に因って又、使を派遣して上表し、此の恩詔に答謝する。
  其の四年{正始四年、244年}、倭王は復た大夫の伊声耆(いしぎ)、掖邪狗(ややこ)等八人を使いとして派遣し、生口{奴婢}、倭錦{緯(ぬき)(横糸)のみで、地色や柄を表現する日本独特の錦}、絳青縑{縦糸と横糸が異なる色糸(赤、青)で織られた絹織物}、綿衣{綿入れの衣服}、帛布{白絹の布}、丹、木弣(ゆづか){弓の左手で握る部分、握り}、短弓と矢を上献した。掖邪狗等は率善中郎将の印綬を壹拝(いつはい){拝受}した。
  其の六年{正始六年、246年}、倭の難升米は黄幢(こうばん)を詔賜され、郡に付して假綬される。
  其の八年{正始八年、248年}、太守王頎(おうき)が帯方郡の長官として{京都に}到り、次ぎに記す事共を報告した。」


**、筆者按:「卑弥呼の朝貢に付いて」:景初は魏の明帝{曹叡(そうえい)}時代の年号で景初二年は西暦238年で在る。しかし、此処に述べられる卑弥呼が始めて魏に朝貢をしたとする景初二年(西暦238年)は誤りで、実際は景初三年{西暦239年}とされる。『日本書紀』が引用する『魏志』及び『梁書』『翰苑(かんえん)』は景初三年と記載する。「親魏倭王」の金印紫綬や詔書、賚賜品の下賜の記述からも又、公孫氏を滅ぼす等、景初二年は動乱期に在る事からも景初三年{西暦239年}説が正しい。

**、筆者按:「中国呉王朝と九州南部(狗奴国)との関係に付いて」:呉王朝は長江中流域から下流域を支配しており、此の地域は後に、遣唐使節が東シナ海を渡海して中国に到着の第一歩を記す地{遣唐使は今の寧波(ニンポー)に到着して蘇州、揚州を経由して大運河を上って長安に到った}でも在り、日本への帰還の際には蘇州を船出して南九州に辿り着くのが常で在った。南九州と長江沿いの中国との関係の深さが理解出来る。
  此の点も「魏王朝と邪馬台国」対「呉王朝と狗奴国」という南北対峙という図式が成り立つ。多くの歴史家は我が国と中国の当時の関係を無視するが、中国は三国が鼎立する時代で在り、互いに権謀術数を策している事を考えた場合、三国の内、沿海州を支配する二国の動向が我が国に影響しない筈は無いと筆者は考える。筆者は狗奴国と呉王朝とは結び付きがあり、狗奴国の背後に呉王朝、孫権の影を見るのである。
  また、第二章にも述べたが鯨面文身の風習を我が国に伝えた夏王朝の会稽郡は今の浙江省の紹興(しょうこう)に置かれていた事、稲作は長江下流域から伝来した事、古代米は菊池郡に発見された事等を考えた場合、九州南部と中国の関わり合いの深さが改めて認識される。狗奴国や九州南部の諸国は「熊襲」等と蔑まれる野蛮人で無く、優れた文明を持つ人々で在った。
  更に、一世紀から二世紀頃の中国と倭国との関係を中国の歴史書に訪ねると、東漢の歴史家・班固(はんこ){32年~92年}と班昭(はんしょう){45年~117年?}の兄妹によって編纂された西漢の歴史書「漢書」には、"倭は朝鮮半島の南の海のかなたにある”と記されて倭と黄河流域の関係が述べられる一方、同時期の王充(おうじゅう){27年~97年}の書「論衡(ろんこう)」には、"倭は中国の南の呉越地方(揚子江の下流域の南付近)に関連あり”と載る。つまり倭人の文化は黄河流域と長江下流域、両地域の文化の影響を受けて発展した事が判る。当然、東漢王朝の次の時代、三国時代にも此の関係が続いており、狗奴国と呉王朝の交わりがあった事が判るのである。

「倭国の歴史」巻三
(wakokunorekisi3.html) へのリンク

「女王国飄々」

放屁仙人邪馬台国研究巻四の2

第三章、「倭国の歴史」ー親魏倭王(p、2)