神に仕える彼女は当然、独身で無ければ為らないが、魏使が見た彼女は既に、可成りの年長で在ったと云う。此の章の第三項に記す様に、彼女の中国との最初の接触は景初三年(239年)で在るという記載と彼女の推定誕生年歳から推測すると、此の時は七十歳を越えていたと想像される。「魏書倭人条」が云う様な"年已に長大”処でない高齢で在った。
卑弥呼には治国を補佐する弟と、婢{女奴隷}が千人も仕えていて彼女の棲む宮殿は楼閣が聳え、城柵が厳めしく立ち列び、武器を光らせた兵士が多数常に、厳しく守護していた。彼女の宮廷には一人の男性が出入りを許され、食事の世話や訴え事を彼女に伝え、彼女の言葉を人々に伝えた。此の男子が、彼女が神に捧げる供物や、宮殿で消費される食糧等の物資を運び込んでいたので在ろうか??
*、「倭国は昔、男子を王として七八十年を経過したが、国内が乱れ、互いに攻伐が何年も続いた。或る時、互いの話し合いで一人の女性を立てて国中の共通の王と為した。彼女の名は卑弥呼と云う。卑弥呼は鬼道(きどう){シャーマンの類}を行い、神に仕える巫女として人々に神の意志を伝えて国を治めた。年は已に長じているが、夫や婿(むこ)は持たない。弟が一人有って治国を佐ける。王に即位して以後は彼女に見えた者は少ない。身辺には婢(ひ)を千人も侍らせ、唯一人の男子が飲食を給し、訴えや彼女の辞を伝える為に宮殿に出入を許された。彼女の居処である宮殿は宮室や楼郭、城棚が厳かに建てられ、常に兵器を持つ兵士によって守衛されている。」
「女王国飄々」
放屁仙人邪馬台国研究巻四の1
二、「女王の支配する遙か遠くの国々」
此の項は、女王国連合に属さない遙かな世界に付いて倭の人々から聞いた話や中国の言い伝え、古書に記載される処を記載した様である。小人が棲む侏儒国は四千余里{三百十公里}彼方に更に、南の方角に船で一年も掛かる遠い所には人々が裸で暮らす裸国や、お歯黒をした人々が棲まう黒歯国等々が在ると云う。
しかし、此処に記載される冥き、伝説話に混じって述べられる女王国近周辺にも倭族の国家が在るという記載つまり、女王連合国から千余里{七十八公里}の東に海の彼方にも倭族の人々が居て而も、彼等は"女王国には統属されていない”という。此は重要な記載である。此の千余里東の彼方の倭族の国々や、南九州の諸国連合の盟主と想像させられる狗奴国、狗奴国に属する国々の存在を考えると、女王は倭の全域を統治していなかった事が判る。千余里の彼方の国々は差ほど遠い世界とは思えない。筆者は周防灘)に面した山口県の諸邑や四国を想像したいので在る。
更に、倭国の周囲は五千余里{390公里}で在ると云う。此の周囲390公里から邪馬台連合つまり、女王が支配する地域の面積を計算したい。
先ず、円周が390公里の円の面積を算出すれば、女王が支配する地域の広さが判る。「円周=2πr」から半径が約62公里という答えが出る。「円の面積=πrの二乗」によって、倭国の総面積は「約12,070平方公里」と計算出来る。此は北九州{福岡、佐賀、大分、長﨑}の総面積17,825平方キロメートルから、長崎県西南部と大分県の南部の面積、約4,800平方キロメートルを除いた値、「約13,000平方公里」という北九州の略、全域近くが倭国の領域{女王の統治下}で在った事が判る。長崎県西南部を女王の支配下から除いた理由は、此の地域は「魏書倭人条」に記載される地域から遙かな遠方に在り、大分県の南部(竹田、豊後大野、佐伯、臼杵)の諸都市)は阿蘇(狗奴国の支配地}経由で表九州{有明、不知火海に面した地域}と繋がるので、狗奴国に属している可能性が強いことが理由である。
斯くして、国土交通省発表の実数値から割り出した面積、「一万三千平方公里」と魏書倭人欄の記載、"周旋すれば五千余里”から割り出した数値、「一万二千平方公里」が似通った数値で在る事が判る。
此の「周旋すれば五千余里」という文言からも、邪馬台連合は北九州に在ったと想像され、「福岡県の山門郡、八女市周辺に邪馬台国は所在していた」という想像へ筆者の自信が強く為るので在る。
*、「女王国から東に渡海する事、千餘里{86キロメートル前後、四国の事か?}の所に復た他の国が有るが皆、倭族である。又、侏儒(しゅじゅ){一寸法師、こびと}国という国が其の南に在り、侏儒国の人々の身長は三四尺{1メートル以下、一尺は0.23メートル}で在ると云う。侏儒国は女王国を去る事、四千餘里{約310キロメートル}である。又、裸国{裸の人々が棲む国}、黒歯国{お歯黒をした人々が棲まう国}が復た、其の東南に在り、船で渡るにも一年もかかると云う。倭の地理を参問(さんもん){人々に問い合わせる}した所、絶海の海の中の洲や島に在り或いは、島として海を隔て、或いは地で連なる。周旋(しゅうせん)すれば{周囲を廻る}五千餘里{390キロメートル前後}で在る。」
第三章、「倭国の歴史」ー親魏倭王(p、1)ー
一、女王卑弥呼即位
古代エジプト王国では代々の男王ファラオは戦いを好み、他国を攻める事によって富をエジプトにもたらせ、世界に君臨する大王国を築き上げたと、ヒエログリフは語る。しかし、戦いの無い平和な一時期を築いて平和外交、交易によって国を富ませた女王が居た事も伝える。ハトシェプスト女王である。
”平和を招いた女王はエジプトだけでは無い”と「魏書倭人条」は語る。"倭国では男王の支配する体制が七八十年間続いたが其の間、内乱状態に在って国同士の戦いが収まらなかった”と。 「吉野ヶ里遺跡」に発見された矢を負うた負傷兵や戦死者、首のない兵士らの遺骨は、此の戦いの様を物語る。
世の古今東西、"男達は戦いを好み、女性が平和を招く”というのが歴史の法則の様である。
倭国の男性王達もご多分に漏れず戦いを好み、女性の力に頼んで平和な世を招く事に為るのである。古の我が国に女王が誕生する秘話である。此の長く続いた戦乱も収拾の気運が進み、各国が話し合って一人の女王を立て、彼女の元に戦いを終結する事が決められた{「梁書」は光和年間(178年~184年)と語る}。女王の名は卑弥呼{西暦170年頃?~248年頃}、彼女は鬼道を行うシャーマンとして神に仕え、神の意志を以て国を治めた。