三,筆者の唱える仮説

  斯くの如き酷い誤解釈や誤認識を究め、解決したと筆者が有頂天に為る珍発見??珍仮説??は、下記する八つの点に集約出来る。要約を列記すると・・・。

①、古代中国の距離を測る尺度、短里{「一短里」は「一長里」の五・二八七二分の一、七十八・三メートル(本文「女王国への旅」1の「筆者按」欄参照)}を邪馬台国への旅程測定に活用し、帯方郡から女王国に至る「魏書倭人条」に記載される一万二千里から距離を算出て女王国の所在地を福岡県山門郡或いは、八女丘陵地と仮説を立てた。又、卑弥呼が支配する地の周旋は「五百余里」という記述から、短里と円周率を用いて女王の支配する地域の面積を割り出し、其れが北九州の範囲に非常に近い事が判った。此も邪馬台国北九州説を証明すると思われる。

②、帯方郡から狗邪韓国迄の入り江を辿る旅は「陸行」に含めるべきである。「水行」は大海を通過する三千余里の海路のみである。{本文第一章、第五項「女王・卑弥呼陛下に拝謁」を参照}

③、「陸行」、「水行」の一日の行程は共に、三百余里{約二十三・五キロメートル}である{本文第一章、第五項「女王・卑弥呼陛下に拝謁」ー邪馬台国への道ーを参照}

④、韓国南岸から倭国へ、邪馬台国へ行くルートと投馬国へ行くルートとは異なった。当時、朝鮮半島南岸から倭国へ行くには二つのルート(第1ルート:韓国南岸~対馬国~一支国~倭本土北岸・末廬国、第2ルート:韓国東南岸~(対馬国)~沖の島~大島~倭本土北岸・宗像)が在った。{本文第一章、第四項「韓国南岸から倭へ渡る二つのルート」ー投馬国への道ーを参照}

⑤、投馬国は福岡県の周防灘に面する地から大分県の北部の沿海地方に所在し又、狗奴国(くなこく)は熊本県北部の菊池郡、山鹿市から熊本市にかけての地を領土にしていた。{本文・第一章第五項「女王・卑弥呼陛下に拝謁」ー邪馬台国への道ー欄、第七項「邪馬台国の所在地と狗奴国との戦い」欄を参照}

⑥、狗奴国つまり、九州南部は中国の呉王朝(孫権)と結び付きが在った。つまり、下記⑦項に記す戦争は、「魏王朝と邪馬台連合」対「呉王朝と狗奴連合」の間に起こった天下分け目の戦いで在った。{本文、第二章、第一項「倭の人々の風体」、筆者案「中国呉王朝と九州南部(狗奴国)との関係に付いて」を参照}

⑦、邪馬台国と狗奴国の間に戦争が勃発し、邪馬台国が負けて女王卑弥呼は死去した。{「本文・第一章・第八項「女王卑弥呼の終焉と其の後の邪馬台国」、第三章・第四項「女王卑弥呼の死と敗戦」、第五項「エピローグ」ー独立戦争、壹與の女王即位ー欄を参照}

⑧、邪馬台国が敗れた後、狗奴国の占領統治に邪馬台連合諸国が独立戦争を起こした{「第三章・第五項「エピローグ」ー独立戦争、壹與の女王即位ー欄を参照}

**注、上記⑦、⑧項の二つ仮説は「魏書倭人条」の原典を原語で熟読した結果、筆者が独自に引き出した仮説で在る。又、上記の⑥の仮説は当時の中国の状況、国際情勢を考えた場合に当然、思い付かなければ為らない仮説である

  以上の八点が筆者が発見した?珍仮説である。特に①項の数字の活用は筆者の独自の注目点で在ると自慢したい。短里、長里の活用は三国志以外の中国の古典解釈にも大いに役立つ。中国の古代だけに限らず、歴史を理解するには其の国の、其の当時の社会常識に基づいた視点や、其の国の伝統や常識が欠けると誤る事が多い。筆者の仮説を皆様は、どの様に捉えて下さるかは判らないが、「魏書倭人条」に記された陳寿のお話{原文}をじっくり、お聴き頂きたい。原文を漢語の儘、熟読為されると筆者の唱える仮説に到ると確信をするのである。


  前置きは此ぐらいにして、「三国志魏書東夷伝倭人条」(以降、「魏書倭人条」と記載)を繙こう。
  尚、本文各節の末尾の「*」印の太字が「魏書倭人条」の原文の翻訳文で在る。また、本著作では「魏書倭人条」を「魏志倭人伝」に代えて使用した。

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「放屁仙人の邪馬台国研究仮説

「女王国への旅1」
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    二,大先達達の陥った誤解と問題点の指摘

  邪馬台国論争の基本的な考え方や問題点、無視されている事実は大きく分けて下記する五点に集約できる。

①,距離測量法の「短里」の存在を無視したこと。
  古代中国には地域間の距離測定の尺度として「短里」が用いられていた。此の事実を無視した為に地域間の距離や国の大きさを誤り、本来の所在地や当時の女王の支配する範囲を大きく踏み外して邪馬台国や投馬国を遠方に移動させなければ為らなく為った。「短里」は隋王朝以前に使用され、唐王朝時代に廃止されて現代に到る。{本文「女王国への旅」1筆者按を参照}

②,当時の日本に影響を与えた国際情勢つまり、呉王朝の対外積極進出政策を無視した事。
  当時の我が国「倭国」には「魏王朝と邪馬台国連合」対「呉王朝と狗奴国連合」という二つの敵対する勢力が存在した。又、狗奴国以外にも、女王卑弥呼の支配が及んでいなかった地域が存在した。「倭国(邪馬台国)イコール日本全土」と云う考え方の誤り。

③,当時の玄界灘、韓国と倭国間の海路には対馬壱岐ルート以外にもう一つ、「対馬、沖の島、大島、宗像」と云う重要な渡海ルートが在った。(韓国東海岸から邪馬台国や投馬国へ渡る東ルートの存在)

④, 「水行」、「陸行」の検討。韓国内の旅程を「水行」に加える事によって旅程に辻褄が合わなくなった?

⑤,大和朝廷や大王家を過大に評価し、或いは其の権威を高めんとする誤った歴史認識つまり、邪馬台国を後の大和朝廷に結び付けんとする誤った仮説を以て、邪馬台国大和所在論を正当化せんとする学説。

  此処に記載した五点の問題点を検討しながら、話しを進めて行きたい。

邪馬台国研究の疑問と仮説

    一,筆者の著作研究の原則

1,「原典に帰れ」:当時の社会情勢に則った、著作者の意向を其の儘、受け入れて研究せよ。迷ったら原典に必ず、答えは見付かる。

2、「権威に阿るな」:他人の学説や研究を盲目的に認めず、検討を加えて自らの仮説を打ち建てよ”と云う事である。"偉い先生の権威ある学説にも間違いはある。疑って掛かれ”。

3,「原語で読み、原語で詠み、原語で聴け」:原語の醸す微妙なニュアンスの中の大きな意味を汲みだせ。


  筆者は研究や著作する際に、上記の三点を思考の原点を置いて更に、奇想天外とも思われそうな仮説を建てる事にしている。其れは2項の「権威に阿るな!」に則った研究姿勢で在ると自負している。
  素人が偉そうに・・・・と言われそうで在るが時には、市井の一老人の話にも耳を傾けて頂きたい。プロの研究家で無い故に自由な発想が認められ、飛んでも無い結論や推論、真理に行き当たる事が多い。