騎馬民族では女伽、酒肴の持て成しは、尊敬を表す最も有効な手段で在り、伽の相手をする女性達も尊敬する人物と閨を共にし、彼の子を生むことは最上の悦びで在った。チベット仏教では高僧が亡くなったら、彼の生まれ変わりの子供を僧院を挙げて探し出し、後継者として育てる。高僧を持て成す伽が行われ、後継者が民間に誕生した事を想像させる。  
  また、仏僧の剃髪不妻帯の習慣は、漢族に仏教が伝わる南北朝時代以降で在る。仏教僧は「道教」や「儒教」との違いを際立たせる為に剃髪、不女淫つまり、独身を守る事を強調した。   儒教の聖人君主然たる教え「礼」、道教の導師に対抗しようとすれば、飲酒、女淫を禁じ、剃髪をして質素な清潔な身なりで大衆の前面に立たなければ為らなかった。

  「大般涅槃経」によれば、お釈迦様は、ヴェーサーリー城で500人の娼婦を抱える高級娼婦アンババーリー(菴摩羅)と二人の娘シュマーナ(須漫)、パドウーマ(波曇)から食事の接待を受け、大金とマンゴー園の寄進を受ける。天竺五精舎の1つ菴羅樹精舎で在る。高齢のお釈迦様が、アンババーリーと床を共にしたとは思えないがお弟子達は、彼女の娼館の美女達の弄伽を受けた。此はお釈迦様が、接待を受けるに当たって弟子達に”心までも囚われないように”と諭したと伝わるからで在る。彼女と娘達は釈迦に弟子入りをして比丘尼と為ったと語られる。
 屁放き爺さん「色即是空」巻三
  此の頁は、"鳩摩羅什は破戒坊主だ”とする定説に挑戦する。多少、色っぽい??挿絵を準備し、羅什を繞る女性達、羅什を尊敬する余り酒肴で持て成し、女伽で慰めんとした騎馬民族の皇帝や武将達の風習は・・・・・。
  羅什の犯した破戒、女淫や飲酒は後の世の価値観に基づいて書かれた文書による評価で在り、羅什の属した社会や時代の価値観に基づく評価で無い事を述べたい。
  鳩摩羅什は膨大なサンスクリット語で書かれた経文を漢語に翻訳し、東アジアの仏教興隆史に燦然たる足跡を残す名僧である。最初に三蔵{経、律、論の三蔵に精通した僧}尊号を得た高僧で在る。そんな偉い坊さんが戒律を破るだろうか?"否、坊主は色鬼(スケべ)で酒鬼(呑兵衛)だと云うぞ”。エロ爺にとってはまたと無い題材を得て生き生きとするので在る。  
抱いてくれなければ死を賜らねば為らぬ
  鳩摩羅什の仏教敬慕は、゛母ジーヴァカ(漢名耆婆)の影響”とされる。6歳で仏門に入り、母に従って天竺(カシミール)に留学を経て帰路、カシュガルで大乗仏教に転向した彼は、学識と名声が真丹(中国)に迄、伝わったとされる。
  カシミール留学を終えて亀茲国に帰国した羅什は、従姉のアカツヤマテイ
ーの彼への敬慕と援助を得て、亀茲国に蔵する仏教経典を研究し、大乗仏僧として布教に専念する。多くの僧侶や王侯、信者が彼の法会に集まった。
  従姉のアカツヤマテイーは深く仏教に帰依し、禅法の奥義に達した賢女で羅什と共に仏典を研究し、羅什の為に大法会を催す等、献身的に彼に尽くす。
羅什は、父鳩摩炎と共に印度に旅立った母、若き日に別れた母への憧憬が生涯去らず後日、死に臨んで”印度に行きたい”と呟いたと云われる。従妹のアカツヤマテイーは、母を偲ばせる年上の賢明な女性で在った。筆者は、”彼女の羅什への献身は愛故で、学識、王族としての身分からも羅什の妻と為る資格は十分では無かったか?否、アカツヤマテイーは羅什の妻で在った”と信じる。  
屁放き爺さん色即是空巻四
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窓辺に憩う美女
或る高僧の破戒???
西域から凉州へ、そして長安入城
  公元 401年、後秦皇帝の姚興は6万の軍勢を催して後涼国を滅亡させ、姑蔵から鳩摩羅什を長安に迎える。前秦王朝の苻堅の招聘軍の派遣から25年目にして漸く、羅什は長安に入城したので在る。時に鳩摩羅什、57歳の冬であった。長安仏教界の要請で長安到着、数日後には逍遙園{現草堂寺}と長安大寺で、彼自身が将来した仏典の翻訳を開始する。翌公元402年、皇帝姚興より庭園付きの宮殿と伎女{側室}十数名を与えられ以降、姚興の依頼を受けて死を迎えるまで仏典の漢訳事業に従事し、多くの弟子を育て、布教に従事した。
  413年逝去、享年七十歳で在った。
  日本でも僧侶には通い妻やお庫裡さんと呼ばれる女性が、彼の身の回りの世話をし、般若湯と喚んで飲酒も愉しんだ。有名な一休宗純禅師は、飲酒肉食や女淫男色を行い、森侍者という盲目の側女と岐翁紹禎という実子の弟子が居た。恋などとは縁の無さそうに見える良寛さんは、貞心尼という美人後家比丘尼と愛の相聞歌を交わし、西行法師は江口の里の遊女を相手に、雨宿りを繞る相聞歌を「新古今和歌集」に残している。
  インドや仏教を育てた天竺{カシミール地方}、仏教を中国の漢族や北方の騎馬民族に伝えた西域オアシス国家では僧侶は有髪、妻帯で、女淫は禁じられていなかった。西域やインドの上座仏教は剃髪を義務付けられるも、女淫や妻帯は禁じられて居なかった。
  菩薩は、頭髪を結って身に日常の衣服を纏い、夥しい装飾品を帯びたお金持ち姿で佇まれる。如来様や仏様は頭髪{螺髪}に肉髻という髷をお結いに為って
坐され、観音様は美女の姿を象って彫られる。
  380年華北を統一した前秦王朝の苻堅王は、西域諸国を併わせ、高名な羅什を招聘せんと十万余の軍を催してシルクロード沿線の諸国を攻略する。384年、亀茲王国は武将呂光によって占領され、羅什は前秦軍の捕虜と為る。「高僧記」や「出三蔵記」等、中国南朝梁王朝時代に書かれた書物によれば、”羅什は此の時、不女淫戒と不飲酒戒を呂光の強要によって破戒させられた”とされる。”従姉のアカツヤマテイーと結婚させられた”とも記される。其の後、

  羅什を伴って長安に帰還する途次、前秦王朝の滅亡、苻堅の死を知った呂光は枯蔵に自立し、後凉王朝を建てる。羅什は軍事顧問として16年間を凉州に過ごした。”此の時も多くの側女が、彼の傍らにいた”と記される。、
鳩摩羅什の従姉妻阿竭耶末帝(アカツヤマテイ-)経を読む図)