屁放き爺さん「色即是空」巻四
「善人もて救われん。益して悪人をや」
「空」の発見
共命鳥
後秦王朝の首都長安に入城した鳩摩羅什が、彼の来朝を喜んだ皇帝姚興から頂いた庭付き、側女付き宮殿でサンスクリット原典を漢訳した仏典は、経典二十六論、律九論の合わせて三十五部、二百九十四巻と云われる。
主なものは「摩訶般若波羅蜜経」二十七巻、「大品般若経」、「小品般若経」、「妙法蓮華経」八巻、「仏説阿弥陀経」一巻、「思益経」、「維摩経」三巻、「金剛経」、「金剛般若経」等の大乗経典、「仏説阿弥陀経・坐禅三昧経」三巻、「禅秘要法経」、「禅法要解」等の禅経典、「十誦律」、「十誦比丘戒本」等の律典及び、「中論」四巻、「十二門論」、「百論」、「大智度論」百巻、「成実論」等の論書を始め、「馬鳴菩薩伝」、「龍樹菩薩伝」、「提婆菩薩伝」等の伝記類に渡る。その他、姚興の為に著したと云う「実相論」二巻と廬山の慧遠との問答輯「大乗大義章」三巻等と云われる。
此等、鳩摩羅什の翻訳経典の特徴は、彼以前の訳者が只、サンスクリット語を漢語に置き換えただけの翻訳で在ったのとは異なり、「空」の思想を発見し、「空」を経典の基本に置いた事で在る。「空」を導入した大乗の論書「中論」や「大智度論」などの翻訳は、鳩摩羅什によって初めて為された経典で在り、翻訳されたこれらの大乗の経・論は、初期中国仏教界に於いて、最も重要な聖典となり、そこから法華宗(天台宗)、三論宗などが成立し、他多くの宗派の基を為す経典と為った。
彼の翻訳は意訳で在り、文学的、詩的な文章が散りばめられ、教義の内容が解り易く、読者をしてサラッと教典の指し示す世界に進入させる点が、玄奘によって翻訳された教典と異なる点である。此は巻一に記した。
また、羅什が最も力を注いだのは、般若系の大乗経典と龍樹、提婆系統の中観部の論書の翻訳であり、羅什こそインドの中観仏教や主要な大乗経典を中国に移植した最大の功績者で在ると言っても過言で無い。
鳩摩羅什が漢訳した教典の一つ、「阿弥陀経」には梵語原典に記載されない共命鳥という架空の双頭の鳥が登場する。共命鳥は、頭が二つで身体が一つに連なった鳥で二匹は仲が悪く、常に諍いを起こしている。遂には、一方が他方に毒草を食わせて共に死んでしまう。
羅什は、共命鳥を阿弥陀世界つまり、極楽に棲まわせて互に抱く矛盾する心、諍う心を許容する事の重要性を説く。二匹の共命鳥に、お互いの存在の重要性を認識させて争う事の無意味さ、共に生きねばならない事を悟る様子を描く。しかし、共命鳥が此の教えを悟るのは死の寸前で在った。つまり、極楽は理想郷では無く、互の矛盾を許し合う事が出来る世界、矛盾を許し合わねば為らない世界、誤りや諍いを許容し合う世界で在る事を述べる。
羅什の「阿弥陀経」に描かれる世界は正に、文学的創造の世界で在り、其れを描いた羅什は仏僧で在るが、芸術家で在ると云える。
"矛盾を認め合え・・・”という羅什の阿弥陀経の教義は、法力が同じ強さの善と悪の戦いは永遠に続く”と説くヒンドウー教の教えで在り、「自他一如の縁起の道理」を説く。つまり、"煩悩の中に悟りが有り、悩むからこそ救われる”。つまり、「煩悩即菩提」と説く。”悪人で在っても救われる”と言い切る。此の偈は、日本では天台僧の源信に受け継がれ、法然によって"悪人は救われる”と進み、最終的に親鸞の"悪人こそ救われる”という考え方つまり、浄土真宗の教えに辿り着くので在る。
お釈迦様の掌に包まれて
市井の商人、維摩詰が釈迦の多くの弟子や菩薩達を論破して「空」という真理に導く物語、「維摩経」の翻訳では、”煩悩を滅して悟りに至れ”と云うサンスクリット原典の句は、”煩悩の中にこそ、悟りが在る”つまり「煩悩是道場」と、”悟りに至れ”という命令形から、”煩悩の中に悟りが潜む、悟りを得よ”と解り易く人々に説いた。
「金剛般若経」では、”囚われるな!”を、”囚われないで、心を働かせて生きよ”という句に書き換えて積極的な、肯定的な文に換え、「空」の心、「囚われ無い心」を説いた"羅什の名訳で在る”とされる。
羅什の翻訳文を、慧能は”本来無一物”と偈して禅の宗祖の第六世と為る。”日々の生活が座禅で在る”という理解し易い教義の「南宗禅」を説いた。慧能の教えは、遣宋留学僧の栄西や道元によって鎌倉時代の日本に伝えられ、臨済宗や曹洞宗の基に為った。
また、「法華経」に「妙」と「蓮」を挿入して、「妙法蓮華経」と改題し、「師子吼」の意味を隠し持つ「法華経」を作る。即ち、「南無法蓮華経」と唱えれば「獅子が高らかに吼える法華経」という風に聞こえるという説で、非常に突飛な見方と捉えられる。しかし、詩人で在り、文学者でも在る鳩摩羅什の翻訳教典に見られる芸術性豊かな片鱗を表す説話で在る。
此の様に羅什は多くの宗派の基と為る経典を分かり易く、文学的に翻訳し、羅什の訳は、"原文を忠実に訳していない。意訳や挿入が多い”という評価も下される。事実、法華経のサンスクリット語原文はまったく詩的では無いが、羅什の翻訳によって初めて、法華経に韻律の命が与えられたと云われる。もし、鳩摩羅什が居なかったら、日本で「日蓮宗」や「天台宗」、「浄土宗」、「浄土真宗」、「禅宗」などの仏教が生まれなかっただけでなく、”仏教が世界の三大宗教の一つに為る事は無かったかも知れない”とまで彼の翻訳の優れた事を讃える。
勿論、聖徳太子の著した「三経義疏」も鳩摩羅什の翻訳本を元にした注釈書で在る。
屁放き爺さん「色即是空」の巻、ー完ー
観音様の微笑み