「屁放き爺さん昔~しのお噺」

  聖徳太子が海西の菩薩天子と煬帝を讃えたが、隋帝国が大陸を統一する半世紀前、南朝の一国梁王朝にも「菩薩天子」が存在した。王朝の創始者蕭衍(しょうえん、高祖武帝)である。
  南北朝時代は大陸の北部を騎馬民族の一つ鮮卑族が支配して長安に都を置き、建業(今の南京)に都した漢族の南朝と長江を挟んで対峙する構図が約二世紀の間続いた。此の南朝の四つの王朝宋、齊、梁、陳に東晋と西晋を加えた六つの王朝を「六朝」と呼んだ。六朝時代は建業や杭州等に漢族の格調高い文化が花を咲かせた。「六朝文化」は我が国の文化発展に大いに寄与した。北朝は仏教を篤く信仰し、南朝は道鏡や儒教が崇拝された。明日香時代に鋳られた仏像は、多くの磨崖仏が彫られた北魏の仏像様式(北魏様式)で鋳造された。杏眼やアルカイックスマイルを浮かべた仏達である。
  高祖武帝治下の梁帝国では仏教に限らず、皇帝の保護を受けてあらゆる学問が発達した。天文学者であり、数学者でも在った祖沖之が編纂した大明暦は「歳差」つまり、地球の自転回転軸のブレも考慮した精密な暦で在った。大明暦では391太陽年が4836朔望月(一年が12.3682864…ヶ月)と計算された。数学者としての祖沖之は、円周率πの近似値(約率)を 22/7 と算出した事でも知られる。彼の息子の祖暅は球の体積は「3/4π×半径の3乗」で在る事を発見した。周興嗣によって復元された「千字文」は、文字を持たなかった我が国へ及ぼしたショックの大きさに付いては既に記した。
  また、髪を伸ばして妻帯をしていた仏僧が剃髪、不妻帯の姿に変わるのも此の時代で在る。

  聖徳太子が、遣隋使を幾度も派遣して隋から輸入した仏典の多くが、梁の時代に書かれた注釈書であり、蕭衍を遡る事一世紀半前に、サンスクリット語から漢語に翻訳をした西域出身の名僧鳩摩羅什の手に為る教典の写本で在った。

  以下、断片的に聖徳太子の挫折の事件を述べる。

巻四

  

”聖徳太子の夢、破れる”第一篇

ーもう一人の菩薩天子ー

  

  古今東西、大会戦に当たっては兵士等の戦闘を鼓舞する事が重要事であった。万葉集にも、兵士等の戦意を高揚させんとした有名な歌が載せられている。唐の援助を得た新羅に滅ぼされた百済王国再建軍の援軍要請に応えて斉明女帝自らが、大軍を率いて新羅征伐に赴く。其の途中、立ち寄った伊豫の石湯行宮{今の道後温泉}の湊、熟田津{所在地不明}に水軍を発せんとした時に額田王によって歌われたとされる歌である。元々此の歌は斉明女帝が詠んだ歌で在るが・・・。

  「♪熟田津(にぎたづ)に 船乗りせんむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな♪」
と詠まれた勇壮な歌である。出陣を前にした酒盛りの席で、超大国唐の水軍に戦いを挑まんとする出陣命令に怖れを抱いて躊躇う?兵士等の様を見て額田王が歌って彼等を鼓舞した。当時の大歌人で而も、超有名人で在った絶世の美女?様々なスキャンダルに彩られた額田王が歌うのである。   兵士等にとっても憧れで在った彼女が従軍していることが兵士等の喜びと誇りで在ったと想像される。

”白村江の大敗”ー汐も叶ひぬ今は漕ぎ出でなー

  第二次世界大戦の太平洋諸島や、欧州の戦場、中国大陸では敵味方、多くの歌手や芸能人がそれぞれの前線慰問に出掛けて兵士等を慰め、鼓舞した事実にも通じる額田王の歌の朗詠で在った
  しかし残念ながら、斉明天皇が自ら率いて遠征した此の大軍は「白村江の戦」で当時の超世界帝国大唐帝国と新羅王国の連合軍の前に敢えなく遭え無く潰え去って百済の再興は為らず、斉明天皇も朝倉の宮{今の福岡県朝倉郡}で失意の崩御を迎える。そして、息子の一人中大兄皇子による嗣位つまり、天智天皇の誕生へ、明日香の地を捨てて近江へ遷都へ更に、壬申の乱へと激動の歴史のクライマックスを迎える事に為るので在る。

”聖徳太子の夢の復活”
(history4-2). へのリンク

  「乙巳の変」とは有名な「大化の改新」である。”蘇我氏の天皇家を蔑ろにする横暴に、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏の一族をも巻き込んでクーデターを起こして蘇我入鹿を打った事件で以後、天皇家を頂点にする中央集権体制が出来上がった”と通説は語る。
  筆者は此の歴史的な通説、皇国史観に則った見方に異を唱え、蘇我氏の大王家を中心とする中央集権国家の建設の意図を、中臣鎌足等の保守豪族による”反革命で在る”と定義付けたいので在る。明日香板覆宮で新羅使節の前で行われた惨劇に、皇極女帝は”何事ぞ”と叫び、”母の入鹿との不貞を詰る”中大兄皇子の言葉に帝は宮殿の奥に駆け去ったという。

  以後、クーデター政権は保守政策を推し進めるが、時局に逢わない政治は行き詰まり、同盟国百済の滅亡更に、在ろう事か?大唐と事を構えて大敗するに至る。此は次の節に述べる。

  「乙巳の変」に先だつ二年前、入鹿によって太子の長子とされる山背大兄王の一族が自刃に追い込まれて太子の血族は絶える。入鹿と山背大兄王の対立は何故か??古代史の謎であるが、此の二年後の蘇我氏の滅亡・・・・・太子と故馬子、推古女帝が進めた改革路線が頓挫した事は自明である。
  歴史は此の後、近江遷都、壬申の乱、天武持統による、「大王位」から「天皇位」へ国王称号の移行、日本国号の使用という動乱の時代を経て、”匂ふが如き平城京”へと進むのである。

「乙巳の変」ー改革路線の頓挫ー