大陸から攻め寄せて来るで在ろう唐と新羅の大兵力に備えて太宰府に強力な防人と呼ばれる大兵力を駐屯させ、明日香の都に通じる海の路、瀬戸内海沿いに多くの山城を築いて鉄壁の防御陣を配置するので在る。更に都の防備は、蘇我政権や聖徳太子の築いた防御陣地を遙かに凌ぐ、規模で築かれ、太宰府から都までの山城を結んで烽火台が置かれ、一朝の事態に備えた。朝鮮式山城は山全体を城砦化し、食糧や武器を運び込んで貯蔵し、多数の兵士を養って防御やゲリラ作戦の拠点と為り得る規模の大きな砦と云って好い。
中大兄皇子によって築かれ、配置された山城を挙げると、対馬の金田城、九州北部の大野、基肄他計四城、四国の永納山、城山、屋島の三城、長門から難波の高安城に至る瀬戸内海北部沿岸に計七城とトータル14城、他に九州内陸部に菊智城と琵琶湖畔の三尾城を併せると16城という鉄壁の布陣で在った。また、筑紫に太宰府防御の為、水城が新たに掘られた。如何にクーデター政権が唐新羅連合軍の追撃を恐れたか?が判る。天智天皇は更に、難波、志賀と遷都を強行するのである。
百済を占領する唐軍から使者が来訪し、戦後処理交渉が行われるが、新羅が唐軍を朝鮮半島から追い出し、半島を統一するに及んで日本の大陸恐怖対策政策が終わるのである。
斯くして、白村江の海戦の大敗北、中大兄皇子による恐怖政治、近江遷都、壬申の乱、天武持統両帝による歴史編纂(日本国号と天皇位称号の確立)と藤原京造営へ更に、平城宮造営と天平の華咲ける文明都市の繁栄へと歴史は展開するので在る。
「屁放き爺さん昔〜しのお噺」
「壬申の乱」を単なる天智、天武の兄弟喧嘩と捉えて好いのか。兄弟喧嘩と捉えるには余りに大きな事件だと思うからである。其処には天智、鎌足の復古政権と近江遷都に見る逃避外交に対して、国内の意見を一つに纏めて唐新羅軍の来襲に備えようとした蘇我政権の積極外交を復活させなければ、百済の様に滅ぼされてしまうと考える集団がいた事が想像される。其の集団が頭目として担いだのが、近江の都を逃れて吉野に隠る大海人皇子(後の天武天皇)では無かったかと筆者は想像する。
クーデター政権は初めから明日香の都から逃げ出そうしている様に思えて為らない。乙巳の変で蘇我氏から政権を奪うや、難波長柄豊碕宮に遷宮をし、大海軍を擁して百済再興に力を貸し、唐軍に敗れて近江大津宮に移る。聖徳太子と蘇我氏が鉄壁の布陣で守る都を無視し続ける。明日香には中臣氏や中大兄皇子に反対する勢力が居た事、天下を握った大海人皇子が明日香の飛鳥浄御原宮に都を戻した事等からも此の、筆者の大胆な想像が裏付けられるのである。
巻四の2
”斯くして、太子の夢は蘇った”
「大化の改新」は、”蘇我一族による専制政治、天皇を無視した豪族支配を打ち破って天皇家が政権を取り返し、中央集権国家が築かれた”という説が学会を牛耳っていた。
此の学説に筆者は異を唱えるのである。寧ろ、聖徳太子の政策を継承した蘇我政権が中央集権国家樹立を目指し、中大兄皇子や鎌足等クーデター政権が其の理想を打ち壊して豪族支配、氏姓政治に戻そうと試みたが、白村江の戦いに敗れる事によって”中央集権国家樹立を目指ざるを得なく為った”と思うのである。
此処で年表にまとめて、大化の改新に続く歴史の変遷を顧みて壬申の乱を次頁「屁放き爺さん昔〜しのお話」巻四の3”天照大女神誕生”欄で考察したい。
「壬申の乱」ー聖徳太子の夢の復活ー
白村江の海戦に大敗して、東亜細亜に君臨をする大帝国唐王朝の偉大なる力を見せつけられたクーデター政権は、政策方針を一転して中央集権政策に闇雲に進まざるを得なく為った。
百済援軍の総帥斉明女帝の崩御を請けてクーデターの立役者中大兄皇子が大王位に就き、中臣鎌足が絶対的な権力を握る。彼等に刃向かう多くの皇子や豪族、クーデターに活躍した者達もが処刑や斬殺された。独裁者天智天皇の誕生で在る。
遷都、”飛ぶ鳥の明日香”から”澪つくし難波の都”、
”さざ波の志賀の都”そして、またまた”明日香の都”へ・・・・・