「屁放き爺さん昔〜しのお噺」

巻三

ー日本の夜明けと聖徳太子の登場ー

  聖徳太子による国内対外政治の改革が始まる。つまり国内に向かっては、国の成り立ちや定義を示す歴史書の編纂{「大王紀」と「国記」,「本記」:古事記、日本書紀の基を成す。大化改新で焼失}、国家統治の規範となる「十七条の憲法」発布、従来の氏姓制度に則る身分制度を廃止した新しい官僚機構「官位十二階」の制定等々の諸政策によって豪族の力を削ぎ、大王に権力を集中させた中央集権政治体制の樹立が直ちに模索された。
  対外的には仏教の受け入れ、遣隋使、遣百済使、遣新羅使の派遣、朝鮮半島からの知識人の招聘等、国際情勢に対応し得る政策が実行された。

  此等の政治体制の確立努力は、聖徳太子の死後も彼の理想を受け継いだ蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代にわたる蘇我政権によって続けられた。
  首都防衛体制は、飛鳥板蓋宮を囲んで北に飛鳥寺、南の甘樫丘には入鹿邸(兵器庫)、東には馬子邸と宮殿を守る城塞を配置して鉄壁の布陣が敷かれ、首都明日香へ通じる海の玄関、難波の港には四天王寺{今日のお寺と違って当時は城郭の設備も備えていた}が建てられ、明日香に通じる街道(今日の太子町)には今も残る叡福寺、野中寺、大聖勝軍寺という大寺が街道に沿って置かれた。元々、此処(今の東河内、渋川の地)は物部氏の根拠地であったが戦いに勝利した蘇我氏のものと為り、聖徳太子が得た地で在ると筆者は想像する。此等の聖徳太子、蘇我氏によって推し進められた改革政策は其の後も続けられる。
  太子による斑鳩地域の開発は、明日香防衛体制建設の一環では無かったかと筆者は考える。つまり、斑鳩宮を中心とした法隆寺や法輪寺、法起寺等の諸寺配置は、明日香の都が占領された場合、明日香に代わる第二首都の機能が与えられたと想像する。明日香占領外国軍に対する遊撃作戦の根拠地とも成り得る地域で在る。
  斯くして大国隋王朝への使節派遣に対する隋の皇帝煬帝の使者を明日香に迎えるので在る。

{筆者按:未だ此の時代には「天皇」という称号は無く、「大王」、「倭王」が対外的に使われていた。また、「日本」という国号が使われるのは持統女帝の頃以降である。従前は「倭国」が名乗られた。

太子の夢"日本列島大改造”
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  朝鮮半島には、玄界灘を押し渡って軍を派遣した事もある。神功皇后の新羅征伐??や唐と新羅の連合水軍に破れた白村江の戦い、九州太宰府での常備軍の駐留等である。此処で少し、聖徳太子が活躍する前後の国際情勢と日本の対応に触れてみたい。

  新羅や百済は古、我が国とは一衣帯水の位置した事から関係が深い。玄界灘という荒海を隔ててはいるが、古代は島伝いに舟による交通手段が陸を行くよりも便利であった事を思えば、日本の北九州と朝鮮半島の間は往き来が頻繁であった。二世紀の我が国を述べた「魏書倭人条」には”朝鮮半島の南端{今の釜山付近}に在った狗邪韓国(くやかんこく)は「倭国」つまり、古の我が国に属する”と記載される。
  新羅とは時に戦争を起こしたが、百済と我が国は兄弟国の様な関係を維持していた。百済が新羅と唐によって滅ぼされた時は、百済の王族や貴族が多数、亡命をして我が国に渡来人として住み着き、尊敬を集め、当時の日本の政治に影響を与えたのみならず、彼等のもたらした大陸の先進文化や技術が我が国の発展に大きな貢献を果たした。
  日本の各地に「百済」という地名が沢山存在する事が此を証明している。天皇家の血筋にも半島が関係している事は現天皇も談話で認められた。

”「遣隋使」、隋の文化にかけた太子の夢”

  聖徳太子が様々な政治改革を行った明日香時代は、海の向こうの激震をまともに被る大激動期で在った。日本では大王家を巻き込んだ蘇我物部両氏の権力を繞る内乱と混乱、大陸からもたらされる仏教(先進)文化を取り入れ、仏教を取り入れんとする蘇我氏の指導の元に大王家に権力を集中させる国家の建設が始まる。
  大陸では南北朝分裂時代が終わって大統一帝国が誕生し、周辺国家に朝貢(臣従)を求め始める。朝鮮半島は高句麗、新羅、百済という三国が鼎立して争いが絶えない状況に在った。
  聖徳太子が蘇我物部両氏の権力を争う戦いに蘇我氏の一員として勝利を得、政治舞台に躍り出るのは正に、此の様な激動黎明期であった。聖徳太子の表舞台登場と大化改新、壬申の乱、天武持統両帝独裁政権に至る明日香時代の幕開けである。

  当時の日本の海外意識の的は朝鮮半島であった。朝鮮半島の動静には強い関心を持っていたが、中国大陸は其の向こうに在って直接、国境を接せずまた、戦乱の大陸の動向は我が国には直接の影響が無かったので在る。

  処が其の中国大陸に南北を統一し終えた強力な大国が出現したのである。中国の統一国家成立という国際情勢の大波が我が国にも押し寄せたのである。此の世界を揺るがせる大変化に対応した政権造り、井の中の蛙意識で在った政策の転換が模索された。物部氏や中臣氏等の従来の豪族支配を続けようとする保守派に勝利を得た蘇我氏を中心とする改革政治の開始である。従来の豪族支配体制を守ろうとする物部、中臣氏を頂点にした保守派が滅んだことによる、積極的に仏教や大陸の文化を受け入れ、日本の政治体制を中央集権体制に変えようとする政治改革が始まる。
  其処に颯爽と現れるのが蘇我氏の血を引く厩戸皇子(後の聖徳太子、此のHPでは聖徳太子と呼ぶ)で在る。彼は仏教を高句麗僧慧慈に、中国の諸制度や儒教を百済系渡来人の覚狽ゥら学び、側近に新羅系渡来豪族の秦河勝を擁する開明的な皇太子で此の明日香時代の幕開けに打って付けのホープであった。