ー大帝国隋から答礼の使者を迎えるー

「屁放き爺さん昔〜しのお噺」巻3-2

  瀬戸内海を航行して上陸する難波の津には四天王寺の五重塔の甍が聳える。都へ通じる街道にも多くの寺が構えて居る。”首都を守る此の鉄壁の防備はどうだ・・・・・”。「世清は驚いたであろう。”隋帝国を取り巻く国々と違う”と唸ったに違いない。
  また聖徳太子の傍には高句麗から渡来して太子の外交顧問に任じている僧慧慈と百済系渡来人の覚箔凾ェ控えて「世清と太子の会談の補佐をしており、太子自身も隋帝国の統治機構に精通をしている。隋帝国に敵対する高句麗との戦いを控えた今、倭国の動向が戦いの趨勢を大きく左右する。”味方に付けなくとも、中立を保たせねば為らない”と感じたに違いない。斯くして、聖徳太子の外交は成功するのである。

  一方、隋帝国も高句麗との戦いに敗れ、大運河の建設など国土開発に財政破綻を来して滅び、隋に代わって唐王朝が中国大陸、アジア全域に覇を唱える事に為るので在る。

”文化移入と太子の夢”
(history3-3.) へのリンク

  中国では公元五百八十一年に南北朝時代が終わり、隋によって天下統一が為されて大帝国が出現した。国内的には分裂してしていた華南、華北地区の政治的一体化が計られ、煬帝によって建設された大運河が、南北の物資を全国的に移動する経済統一化を推進させる。対外的にも統一国家の経済力と軍事力を背景にして周辺諸国家の属国化、朝貢を求める従属化政策が強力に推し進められた。事実、林邑や契丹王国が隋によって滅ぼされ、沖縄や台湾にも軍船がが現れる。朝貢に応じない高句麗には二度にわたる大遠征軍、その数も百万を号する大軍が派遣された。
  結局、此の大運河等の大事業、海外大遠征による失政が隋帝国を亡ぼす原因になり、公元六百十八年の大唐帝国の設立に至る。唐王朝は律令制を充実させ、三百年の安定政権を樹立させる。周辺諸国も朝貢をして唐王朝に従属を余儀なくさせられ、唐の文化を受け入れ、唐に倣った政治体制を樹立させるに至るのであるが此は少し、後の事。今は聖徳太子と隋の皇帝煬帝に付いて述べる。

  ”・・・国家に書籍未だ多からず。・・・。爰に小野臣因高を隋国に遣わして書籍を買い求め使め云々”という記載が日本の古書に残され、小野妹子に始まる日本の中国(隋唐)へ渡る人々の第一の役目は中国の優れた文化を学んで移入し、長安を摸した大都城「藤原京、平城京」、国家を建設しようとした事は、此の篇の「シルクロードとブックロード」に記した処で在る。
  聖徳太子によって派遣された遣隋使「蘇因高」と記される人物は小野妹子の中国名で在る。遣隋使、遣唐使を通じて中国に渡った使節や留学生、僧等は日本名でなく、中国名を名乗った。有名な阿部仲麻呂は「晁衡」、養老の遣唐大使、多治比県守は「英問」と名乗った。平成十六年に西安近郊で発見された墓碑には「井真成」の名が国号「日本」と共に墓誌に刻まれ、玄宗皇帝から死を傷んで「尚衣奉御(内蔵頭、縫殿頭)」という位を追祟された唐朝廷で活躍をした日本人で在った事が知られる。
  佐伯眞魚つまり、僧「空海」は長安の青龍寺の恵果和尚から授かった「空海」の名を僧名として帰国後も名乗った。

  当時の中国隋帝国、唐帝国は世界の中心として周辺国の憬れの的で在った。明日香から白鳳、天平時代の多くの日本の知識人が唐土、中国に海を渡った。  

聖徳太子の夢”日本大改造計画”第二篇


   ”板子一枚下は地獄の海”じゃないが、東シナ海は「地獄の門」と呼ばれる魔の海であった。島伝いに朝鮮半島を行くルートも在るが、朝鮮半島は三韓が互いに鎬を削る戦乱の世界で、遣隋唐使節は九州から直接、渡海して寧波に中国での第一歩を標し、蘇州を経て長江を渡り、揚州から煬帝によって建設された大運河を北上して、長安の都に朝賀をするのである。
  小野臣因高が隋国に遣わされた理由、”書籍を買い求め使め云々”という記載が当時の日本の知識人が中国に派遣された理由を言い表している。そして、彼等は支度料として、給料として得たシルクを或いは、自ら持参したシルクを・・・遂には、中国の朝廷から朝貢の返礼として頂いた錫賚(しらい)迄をも売り払って書物や文化を手に入れて帰国する、という凄まじい迄の文化の収得移入努力が図られたので在る。

ー”遣隋使"蘇因高、唐土に渡るー

  遣隋使蘇因高の持参した国書には「日本の天子が隋の天子に文を送る」という大国隋の皇帝に対する失礼な句「天子」が倭国の王を指す句として使われていた。此に対して煬帝は”蛮夷の書に無礼あるは聞する勿れ”と言ったという。また、煬帝を指して聖徳太子は「海西の菩薩天子」と讃え、遣隋使派遣の目的は”書籍を手に入れる事が最重要目的で、”天子に拝謁は’・・・兼ねて隋の天子を聘う’と表敬する為だけである”と表明する。煬帝は”蛮夷だから・・・”と認め、貴国の様な素晴らしい菩薩の国を築きたい”と云う言葉を天晴れと受け取り、他の周辺国とは異なる意志を嗅ぎ取ったと思うのである。

  煬帝は答礼の使者として「世清を小野妹子に同道させて、倭国の現状を実地検証させる。「世清は驚いたであろう。倭国侵略の第一関門の最前線と為る那の津には水城即ち、十メートル幅の堀が掘られ、太宰府政庁の控えに大野城という山城(水城や大野城は今も残されている)が穿たれて居るのを見たであろう。、