「屁放き爺さん昔~しのお話」巻二

  古、日本は中国から多くのものを学んで、其れをいち早く消化して自分のものとし、中国に並ぶ文化を築き上げた。日本が始めて中国の正史に記録された「魏書倭人条」や「晋書」には、倭国(当時の日本)の女王卑弥呼や壹與は魏王朝や晋王朝の皇帝への朝貢品として奴婢や白珠{真珠}に混じえて倭錦(やまとにしきや絳青縑(こうせいけん)という当時の中国にも無かった高度の技術で織られたシルク布地を献上したと記される。
  シルクは何時、日本に伝わったか不明で在るが、卑弥呼の時代から遠く遡るとは思えない。卑弥呼の時代から日本人は物真似文化?否、優れた文化を吸収して、其れを消化し、我がものとして発展させる事が得意で在ったので在る。

  唐代の正史、「旧唐書」には、"開元の初め、又使いを遣わして来朝す。・・・よって儒士に経を授けられん事を請う。・・・・。得るところの錫賚(朝貢に対して唐の皇帝から下される賜り物)を費やしてことごとく文籍(書籍等)を市で購い、海に浮かんで還る”と記載される。つまり、唐の朝廷から頂いた貴重な賜り品、錫賚までをも市場で文籍を手に入れる為に費やし、買い得た文籍を持ち帰ったという。また、"仏僧や学者に経を学び、廟堂に謁し、寺と観の礼拝をする”事を願い出たと北宋の類書{一種の百科事典}「册府元亀」に載る。当時の日本は”大陸の優れた文化を移入する事、其の移入した文化で国家を建設する事に如何に、懸命で在ったか??”が判る文章である。
  明日香時代の記録「経籍後傳記」は語る、"小治田の朝{推古天皇}十二年・・・・。国家に書籍未だ多からず。・・・。爰に小野臣因高を隋国に遣わして書籍を買い求め使め、兼ねて隋の天子を聘う”と。小野臣因高とは中国名蘇因高つまり、聖徳太子が派遣した「遣隋使」の正使小野妹子である。当時の朝廷が小野妹子を派遣した主たる理由は、国家として未だ多く揃っていない書籍を買い求める事に在って、皇帝拝謁は「兼ねて」つまり、序での表敬訪問に過ぎない付属的行為で在ったと云うのである。大国の皇帝に対して無礼千万、畏れ多い事である。しかし、小野妹子が持参した聖徳太子の親書に書かれた、"日出る国の天子、日没する国の天子に書を与ふ。恙が無きや・・・・”という無礼な書かれ様も差ほどの問題には為らなかった。隋帝国の皇帝煬帝も此の親書を看て"ムッ・・・”としたと思われるが、「遣隋使」の派遣理由が、"貴国の優れた文化を学んで貴国の様な文化国家を建設したい”という事にあったからであろう。煬帝は居並ぶ臣に言ったという。"蛮夷の書なり。気にせず・・・”と。

  八世紀に陸奥の国で金が大量に算出するまでの遣唐使節として派遣される人々には、大使や副使から使節団員、留学僧、随員や水主に至る迄、身分に依る差はあったが、支度料や給与としてシルク地が朝廷から与えられた。当時のシルク輸出量は中国の四倍、東アジア諸国と競べて27倍と圧倒的に日本からの輸出量が多かった。斯くして、中国に渡った古の我が国の青年や学僧、お役人達は専ら儒士や仏僧、道師達から経を授けられ、廟や寺院で礼拝し、修行をして知識を得、唐の朝廷から賜った貴重な錫賚迄をも費やして文籍を購って日本へ持ち帰ったという。恐らく自分で持参したシルク生地や錦も、朝廷から下された支度料も含めて所持するシルク製品を全て費やして沢山の書籍や文化を購ったのであろう。持てる錦などのシルク製品を使い果たして迄も "中国に列ぶ文化国家を建設しよう”という夢を買って帰国したのである。
  其の後、シルクに代わって金が大量に中国大陸で文籍の購入に使われる様に為り、日本は黄金の国として彼の地の人々に認識される。後の世の「ジパング即ち黄金の国」と為るので在る。

  中国から日本に至る海の道を、或る学者は「ブックロード」とまた同じ道の往路、日本から中国に至る道を「シルクロード」名付ける。つまり、飛ぶ鳥の「明日香」の時代に、黄金に輝く金銅仏が佇む白鳳時代に或いは、青丹よし「寧楽」の時代に生きた日本の人々は、文化の花咲く中国に至る「シルクロード」を海に浮かんで大陸に渡り、絲調を売り尽くして購った書籍や知識を満載にして「ブックロード」に舟を浮かべ、"大唐の都長安に並ぶ文化都市「平城京」を建設する”という夢を胸に溢れさせて日本に帰って来たのである。「書籍」と云わず「文籍」とは上手く言い当てたものである。「文籍」という言葉には、書籍のみならず文化、知識という意味が言い表されるのである。

”シルクロードとブックロード”第2篇
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筆者按「遣隋使の国書に付いて」

  我が国の学者の中には遣隋国書に「日出る国の天子、日没する国の天子に云々」という文中の「日没する・・・」という失礼な文に対して”隋孝帝煬帝は怒った”と発言する者が居る。此は中国の古典を知らなさ過ぎる発言で、中国では東より西が上位に置かれる。「詩経」という最古の詩集には”点は西に頭を、東に足を向けて横たふ”と詠われる。また、阿弥陀世界は西方浄土と呼ばれる。中国から見て西に世界は広がっているが、東は海つまり、行き止まりなのである。
  遣隋使の国書は更に、「海西の菩薩天子」と煬帝を讃える。聖徳太子は天子と記して「倭国と隋国は同格也」と主張するが別に、煬帝を優れた天子と持ち上げる。如何に外交能力の優れた指導者であるか?を示すのである。

”シルクロードとブックロード”第一篇

  此の「屁放き爺さん昔~しのお話」巻2篇では、日本が中国から文化を輸入し、其れを自分のものとして中国の水準までに引き上げた聖徳太子の時代から、中国から当時、最高の文化人鑑真和上を迎える迄に文化的成長を為すに到る天平時代までの過程を「遣唐使」を通して学びたい。

ー青丹よし平城の都は咲く花の・・・ー