此の「文籍之夢」の総仕上げ或いは、其の文言を言い表す代名詞と為ったのは「鑑真和上の東下」で在った。中国仏教の「律」の最高峰に位した名僧鑑真の東下は、中国と日本を繋ぐ文化道「ブックロード」を彩った最高の華花であったろう。「鑑真和上の来朝」という一言の裡に、中国から優れた医術や薬学、暦や天文学等の科学技術、政治学や歴史、古典、、教養、作詩等の文学、更に漢字という文字までもが伝えられ、正倉院展に見る事が出来る宝物等々・・・、華咲ける唐土の優れた文化が移入され、日本の文化誕生の基礎と為り、”日本文化の興隆に大いなる影響が与えられた”事実が物語られるのである。

  東大寺の大仏開眼法要では大導師を務めた婆羅門僧正菩提僊那や音楽を担当した林邑国{インドシナ東南部のチャム人の王国、チャンバ王国}の僧仏哲、唐の仏僧道璿等の来朝を誘い、新羅の王子一行等の善知識や旅人が海を渡って奈良の都を訪れるのである。

  「ブックロード」を通してもたらされた文化をいち早く消化して長安という華の都に似た都城を建設するのも明日香から奈良の時代の人々であった。"中国に列ぶ文化国家を建設しよう”という夢は、もたらされた文籍を直ぐに咀嚼消化して自分のものにし、其の得た知識を更に、発展させて中国に送り返し、中国の知識人を驚かせる迄に成長するのである。
  宝亀三年(公元七七二年)の遣唐使節に同伴して上陸した僧戒明によって揚州の竜興寺の僧霊裕に献呈された聖徳太子撰に為る「法華経義疏」と「勝鬘経義疏」を看た揚州の法雲寺の僧侶明空が「勝鬘経義疏」の注釈書「勝鬘経義疏私鈔」を著した。又、鑑真の弟子思託の「延暦僧録」によると、淡海三船著の「大乗起信論注」が遣唐使節によって中国に持ち込まれる。又、三船と並んで「文人の首」と称された石上宅嗣が著した「三蔵賛頌」を読んだ唐の内道場{唐王朝の宮廷内の仏道修行所}の大徳飛錫{大徳:庁の長官}等は宅嗣の学識と文才に大いに驚いたと伝えられる。淡海真人三船は又、思託から資料の提供を受けて前記の鑑真和上の東下の子細を記した「唐大和上東征伝」を撰集したと云われる。

日本誕生”倭国から日本へ”
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”シルクロードとブックロード”第3篇
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「屁放き爺さん昔~しのお噺」

巻二の2

  今日でも「奈良の大仏さん」の参道では東西の耳慣れない言葉が響き渡り、黒髪黒眼の東洋人のみならず、金髪や茶髪(最近は日本人も茶髪が多いが)碧眼の西洋の人々に出会う事が出来る。此の有様は、奈良時代には「平城の都」の約百メートル幅の朱雀大路や登大路の大仏参道、長安に摸して置かれた「西市」や「東市」は”国際色に満ち溢れた風景で在ったに違いない”と確信させるので在る。

  斯くして「ブックロード」は、"中国から日本へ”という一方通行の役割を終えて互いの知識や文化が通い合う文化メインロードと為り更に、其のメインロードが発展し尽くす事によって「・・・・咲く花の薫ふが如く今盛りなり」と和歌に讃えられた文化都市「平城京」つまり、「青丹よし寧楽の京師」が正に、匂い立つ諸々の華花に彩られ、様々な彩色を施されて聳え建つ寺院や宮殿が甍を列べて生まれるのである。「雑華厳浄朱黄青」と詩に詠まれた緑青や朱(丹)、黄(葭よし)・・・で彩られた大都邑が、大唐の都長安を模して建設されるのである。

ー鑑真和上の来朝と大仏さんー

  仏教の経典解釈や注釈のみ為らず、仏像造像に於ける中国から渡来した様式が日本特有の様式に変化する過程を見ても手に入れた先進文化をいち早く消化し、日本固有のものに生み換える日本人の文化移入の能力の高さが覗える。北魏様式の仏像が其の儘、写造され、金銅仏が鋳造された飛鳥時代に始まり、中国の造仏様式の変化に敏感に対応して其れを取り入れた白鳳時代を経て、仏教が初めて伝えられた明日香時代から約百年後の天平時代には、中国渡来の仏像に加えてヒンドウー教の神々の像にも影響を受けて我が国固有の多くの仏像が誕生する。法隆寺のご本尊釈迦三尊像や飛鳥寺大仏等の明日香仏に始まって薬師寺の薬師三尊像や聖観音像等の白鳳仏や法隆寺の国宝館に佇む小さな仏様達を経て、東大寺や興福寺、法華寺、唐招提寺等の寺院に祀られる天平の仏様達に至る変遷である。造仏技術でも大きな変遷がみられた。  つまり、金銅仏の鋳造や木彫の造仏に始まり、天平時代には脱活乾漆、木心乾漆という世界にも例を見ない日本にのみ否、日本でも天平時代にのみ、生み出された仏様達だけに観られる造仏技術を生み出すに到るのである。

”シルクロードとブックロード”第2篇