閑叔白文「曹操」を論ずる。”巻二

  曹丕と曹植の父、曹操は "軍を御する事三十余年、手に書を棄てず・・・・文を賦し、詩を作る。”と陳寿は「三国志・太祖伝」で文学を愛した事を強調する。又、董卓の乱で胡地に連れ去られた蔡琰{文姫}という「胡笳十八拍」の切々たる詩で有名な女流詩人を千金{金一千両、つまり金四十公斤(キログラム)、1両は0.04公斤。此処は多額の金の意。}を費やして買い戻し、後漢を代表する学者蔡邕の戦乱で焼失した四千余りの蔵書の内、彼女が暗誦していた四百余りの書と「続漢史」を復著させた話は曹操の文学を愛し、学問を保護した故事として語り伝えられている。蔡邕は蔡琰の父で、曹操の友人でも在った。
  曹丕は、曹操の残した賢臣,有能な軍人を駆使して魏を大きく発展させたが、文学者としての才能も高い。政務の傍ら、百篇を越す論文を自ら著し、儒学者や国士に編集させた経伝は千篇を越したという。此等は「皇覧」と号した。作詩にも非凡な才を見せたが、弟の曹植に一歩譲る。彼は評論や文学論に多くの優れた文章を残している。陳寿は「三国志」で曹丕を称えて、"文藻は天が資け,筆を下ろせば章を成し,博聞にして識強く,才芸は該を兼ねる{遍く具わる。}。・・・。”と述べる。
  彼は此の様に文学にも大きな足跡を残したが、政治家としても優れた才能を発揮した。曹操が多くの賢臣を彼に遺した事も幸いした。彼の詩は、対象物を有りの儘に詠み込んだ詩が多い。曹植の様に、自分の感情や意いを込めて対象物を詠む詩と多少、違う印象を与える。此の物事を有りの儘、視るという性格や文芸評論や文学論に優れていた事は統治者として最適であった。白紙で人を観察し、他人を見抜く目が養われる。劉備に攻められた孫権が臣従を申し出る時、彼は既に孫権の腹の中を見通していて幼い長子を人質に出せと難題を吹っ掛けて孫権の真意を試す。父と同様、積極的に人材の登用を計って前過を問わず賢人を招き、敵方から寝返った者や投降してきた者達を前職以上の待遇で採用し、曹植の側に立つ者も構わず重用したのである。女性が政治に関わる事を嫌い、其れまで行われていた太后や皇后への政治報告を禁止し、彼女等の親族は決して政治に参加させなかった。彼の治世は六年と短かったが魏王朝は彼の治世下に繁栄の頂点を極め、国家の礎を築くのである。漢の献帝から禅譲を受けて皇帝に即位するのも彼の時代である。弟の曹植は父と兄を凌ぐ大詩人で、曹操より受け継いだ詩人としての血は息子二人に脈々と流れ、建安文学の興隆に大きな貢献をしたのである。曹操と曹丕、曹植の父子は「三曹」と称された。話を戻す。
  何故、孔明は多額の金品を費やしてでも、曹丕と曹植兄弟の啀み合いを大きく発展させなかったのであろうか。一方の勢力に食い込み、敵を分裂させて戦力を弱める事は兵法の初手である。更に、諸葛家の一族が魏王朝に高官として多く仕えていた事を考えれば、"間”{スパイ作戦}という戦略を用い無かった孔明の北伐は "作戦疎漏で在った。”と言うほかはない。劉備に献策した「隆中策」にも、"・・・力を蓄え、一度天下の形勢に異変が起る時、・・・・。”と延べ、天下の形勢に異変が生じる事を待つ重要性を説いているのである。孔明は、曹丕の優れた統治力に「間」の戦略を用いる事が出来なかったのかも知れない。押し返しても、押し返しても進んで来る孔明軍の執拗な攻撃は宮廷や軍、民衆の結束を固めさせる結果を招いただけで在ったのかも知れない。蜀軍に対して国家を挙げた君臣一丸と為った防衛作戦の結果、曹操の死に由って起こるべき混乱が表面に現れず、発展しなかったとも言い得る。曹植も兄に対抗できる政治能力、陰謀を起こす能力を持ち合わせていなかった。彼が魏王朝を乗っ取ろうとすれば、孔明や孫権と手を組む事は出来た筈である。彼は所詮、芸術の中に自己の不遇を嘆くだけの人物で在ったのである。曹操に”曹丕を後継者にせよ。”と暗に進言した賈詡の目は正しかった。

  孔明の戦術を視ると余りに、綺麗過ぎる事も気になる点である。正々堂々の陣を張り過ぎたと思う。小が大を呑み、弱が強に勝つには乾坤一擲の大博打を打つ事が必要である。彼は最後まで、一か八かの大勝負を仕掛けなかった。孔明は "勝てば官軍。”と言う言葉を知っていたのであろうか。孫子の兵法に "間”の戦略の重要性が述べられている事を知っていたのであろうか。彼に従って苦痛に耐えた蜀の人々の為にも、劉備との約束を果たして三国を統一する為にも、もう少し汚れ役に為る必要が有ったのでは無かっただろうか? 乾坤一擲の大勝負をどうして、仕掛けなかったのか? 此等の疑問は陳寿が "孔明管仲、蕭何に優るも、楽毅、韓信に及ばず。”と指摘する理由の一つかも知れない。

「文藻は天が資け,筆を下ろせば章を成す。」

ー曹丕と曹植を論ずるー

紅花新緑彩寺院 諸佛諸人聚一堂 
五月上旬黄金週 九品弥陀美女天
         白文題

「烏鵲南に飛す」

筆者の自己紹介、
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  孔明は何故、対魏戦争つまり北伐で魏の内部に混乱を起こさせ無かったのであろうか。多くの後世の研究家は悔やむ。筆者も此の指摘には賛成である。
  曹操の死後、後継者に長子曹丕が指名され、次子曹植は兄曹丕の圧迫を受け、王朝の裏面では曹丕派と曹植派の重臣達は秘かに反目し合っていた。曹操は、長子の曹丕よりも曹植を可愛がっていたが、参謀賈詡の進言で長子を差し置いて次子を立てる事によって其の後の政権内部に混乱を招きかねない可能性を悟って長子の曹丕に位を譲る。曹丕は優れた指導力を発揮して曹操の遺した重臣や武将を使い切り、王朝内部の混乱を表面化させなかった。しかし、豪放磊落な曹植は多くの人に好かれていた。曹植は兄曹丕の圧迫に対して数々の詩を遺している。紹介するのは「七歩詩」と題する詩で、兄弟が憎しみ合う事を嘆く曹植の心が滲み出た哀しい詩である。

表紙閑叔白文の「孔明夜咄」
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「文藻は天が資け,筆を下ろせば章を成す。」ー完
    2007年6月21日
    在、遊蜘窟閑叔亭

「煮豆持作羮、漉豉以為汁、   「豆を煮て持って羮を作る、豉を漉し以て汁を為す、
萁在釜下然、豆在釜中泣、    萁は釜の下に在って然え、豆は釜中に在って泣く、
本自同根生、相煎何太急。」   本は同根より生ずるに、相煎る事何ぞ太だ急ぐ。」

*、豆を煮て羮を作り、発酵させた豆を漉して汁物を作る、
  豆殻は釜の下で燃え、豆は釜の中で泣きながら言う、
  本もと同じ根から生まれたのに、何故そんなに酷く煎るのか?{虐めるのか?}