「屁放き爺さん昔〜しのお噺」

  此の聖明王によってもたらされた仏像が”蘇我稲目に下され、明日香の都に大いなる寺(法興寺)が建てられた”と日本書紀は語る。”仏教という新しい教えを享受せんとする蘇我氏と、仏教の受け入れを拒み、古来の宗教を守らんとする物部氏等の間で権力争いが始まった”と歴史は伝える。明日香時代の幕開けである。
   時に、疫病が流行った事が、物部中臣氏等「仏教の受け入れ」反対派と、仏像を祀らんとする蘇我氏等、仏教受け入れ派の争いが激化する事に為る。物部中臣氏等は”寺を壊し、仏像を浪速津に流し、渡来人の娘尼僧三名の尻を鞭打って海柘榴市
(つばいち、桜井市金屋)で辱めた”と日本書紀は述べる。まるで、今日のインドや東欧の諸国で起こっている宗教戦争そのものの描写である。

  斯くして、日本の歴史を目覚めさせた「蘇我氏と物部氏の戦い」は”朝鮮半島からもたらされた新しい文化「仏教」と日本在来の文化の戦いで在る”と云う説が古代史の定説とされ、今日に伝えられた。”八百万の神々
(従来、日本に定着していた信仰)を守ろうとするつまり、大王家を中心とする旧秩序を守ろうとする物部中臣氏に対して、仏教を奉じて新しい世界に開かれた秩序を築こうとする蘇我氏による宗教戦争で在った”と云う。更に、戦いに勝利した蘇我氏が横暴を極め、入鹿の代に為ると”大王家に代わって天皇位に就かん”と意図するに至り、中大兄皇子と中臣鎌足等が「乙巳の変」を起こして蘇我宗家(蘇我蝦夷、入鹿)を滅ぼし、天皇家に権力を取り戻させ、中央集権国家を樹立した”とも教えられた。
  果たして真相はどうで在ったのだろうか?日本史教育の定説が正しいのか?果た又、別に真相が隠されているのか?「日本書紀」という事件の二百年も後に書かれた正史だけが頼りの研究で、多くは当時の情勢から想像せねば為らない研究課題で在る。筆者にとっては、想像研究?唯我独尊的史学が活躍しそうな楽しく為る課題で、あらゆる仮説が成り立ち、許される課題で在る。

寝物語第二篇

  「蘇我物部戦争は宗教戦争で在る」。筆者は此の説に反旗を飜したい。と言うのは、”八百万の神々つまり、此の世に存在する物全てに神が宿る”という事は”戦いの無い世界、全てが包括される世界”を意味する。八百万の神々は酒好きな様にも描かれる。神々を祀る場合には「直来」という盃を干す行事が必ず、式次第に加えられる。八百万の神々は平和な酒宴が好きで在る。戦いは似合わないし、何時も何時も笑顔の悠然とした様が画にされる。

  筆者は「魏志倭人伝」の述べる”「狗邪韓国」或いは、「伽耶諸国」の後継国が「任那」或いは、「金官伽耶」、「駕邪」と呼ばれ、「任那日本府」と我が国の歴史書「日本書紀」に書かれる倭国の半島勢力では無かったか?”と想像するのである。

  ”任那日本府が新羅に滅ぼされ、欽明天皇の時に百済の聖明王から金銅仏一体と仏典が伝えられた”と日本書紀は述べ、また、”聖明王の死によって任那日本府の復活協議は頓挫し、日本は任那という朝鮮半島の橋頭邦を失った”と韓国の史書は伝える。
  筆者は日本と云う国家の歴史は此の頃に始まる。つまり、”日本のビッグバンは此の事件の頃では無いか”と定義付けたいのである。

「Prologue To Japan Birth」巻3
(historyprologue3) へのリンク

  一方、仏教も全てを許容、包括する宗教である。当然、他宗の教義を認める。”互いの存在を認め合う宗教、平和な諍いの無い宗教、”その神々が互いに相手を排斥しようとしたのだろうか?日本書紀に語られる様な神道による仏像を難波津に流し捨て、三名の尼法師らを裸にして海柘榴市(つばいち、現代の桜井市金屋)でお尻を鞭打つなどのセクハラ的暴挙は実際に起こされたのか??何とも合点の行かない。

   筆者は蘇我物部戦争は新興勢力と旧来の勢力とのぶつかり合いで在ったと思う。物部氏の本拠の難波の地は西から来る瀬戸内海の終着点で在る。大陸から伝わり来る新しい文化がいち早く、到着する地で在った。北九州から東遷して来た倭国の人々も瀬戸内海を渡って此の地に落ち着いたと思われる。此の地から大和川を遡って大和に至るのである。つまり、難波の地は大和よりも先進地では無かったか??
  何故、日本の中心地を大和に持ってこなければ為らなかったのだろうか??此処にも不可思議が潜んでいる様に思える。

”蘇我物部戦争は本当に宗教戦争???”

”Once Upon A Time For Japan Birth” 巻二


  其処で”烏滸がましい奴”と叱られるのを覚悟で、此の「日本史最大の謎」とされる「聖徳太子の大事業」と其れに続く、「激動の明日香時代」、「大化の改新」の謎を読み直して、”咲く花の匂う・・・”と謳われた「天平の春」、文化の雑華が厳浄する天平の時代に先立つ時代を振り返って見ようと云う、壮大なロマンに立ち向かう決意に至るのである。

  日本が歴史記録に顔を覗かせるのは中国の三国時代で在る。「三国志魏書東夷伝」中の倭人の条所謂、「魏志倭人伝」と呼ばれる文章である。更に其の後「晋書」に、南北朝時代の各王朝の史書に断片的に記録が残され、隋朝或いは、唐朝の遣隋唐使の記録に到る。
  其の中で注目するべき事が魏書倭人条に語られる。其れは、”朝鮮半島南端に「狗邪韓国」が在り、此が倭国の北岸で在る”と。”倭国(古の日本)は半島の南岸から海峡を経て南に繋がる”と述べられる。つまり、天下が三つに分かれた中国の一国の正史に”朝鮮半島の南端、現在の釜山付近は倭国と名乗った日本の勢力下に在った”と記される。
  また、六世紀の韓国の歴史書は”百済と新羅の間に任那という国が海に南面していた。任那には府が置かれ倭国の統治、軍事機構によって支配されていた”と述べる。

金官伽耶諸国と任那日本府の滅亡