「屁放き爺さん昔〜しのお噺」

”シルクロードの旅”第3篇
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巻一の2

”シルクロード一万キロの旅を行く”第二篇

  「シルクロード」を通って中国からシルクや錦、陶磁器の逸品、茶や他の多くの物品が駱駝の背に縛り付けられ或いは、船底に並べられて持ち出され、ヨーロッパや中央アジアからは金や銀、ガラス等の工芸品が持ち込まれた。金より高値で取引されたと云われる青色の顔料ラピスラズリ(中国名では瑠璃)や、当時から数えても二千年?の昔、シバの女王が君臨して栄えたというアラビア半島の西南端のシバ王国{現イエーメン。一説にはエチオピア地方に栄えたとも云われる}で乳香樹の樹脂を採取して作られる乳香、伽羅や白檀等の香木、沈水香木と称される高価な焚香、崑崙山中に産出し、雪解け水に運ばれて和田近くの河原で採取されて様々な加工を施される玉石、紫檀や黒檀等の珍木等々の高価な品々勿論、瑪瑙や琥珀、真珠や珊瑚、石榴石等々の宝石類・・・が大唐の都長安の西市や東市に並べられた。
  仏教や回教更にはキリスト教や拝火教、その他多くの宗教も伝えられ、火を焚き、地に頭を額ずけて神への絶対信仰を誓って合掌し、十字を切って神々を祀る為の教会や寺院が数多く長安の都に建てられた。

”塩と茶、戦馬が運ばれた路”「茶馬古道」

  此の沙漠と海の二つのルートの他にも、中国の四川省や雲南省から険しい山間を流れる急流に沿った危険極まり無い細い石ころ道を延々と、幾月も掛けてキャラバンをしながら「茶」や「塩」等をチベットに運び、チベット高原で飼育される強い体力を持つ「戦馬」を皇帝軍を強化する為に中国に連れて帰った交易路「茶馬古道」や、タクラマカンの大砂漠の難路を避けて今の青海省の青海湖の畔を西に向かって進み、崑崙山脈を越えて和田の近くでシルクロードの「西域南路」に合流するルート更に、「西域北路」から険しい雪の峠を越えて天山山脈の北側の草原地帯を歩く「天山北路」等々の交易路にも近年、「シルクロード」という呼び名が与えられる。
  前項でも触れたが「茶馬古道」はチベットから西と南に分岐して更に、進んで多くの人々の生活に関わった。西に進んで古代グゲ王国に到るルートと南にヒマラヤの峠を越えてインドの北部の山間地帯に暮らす人々に小麦や米等の食糧を供給した交易路でも在る。天山北路は、ベネテイアの商人マルコポーロが遙々と来朝し、皇帝の知遇を得た道でもある。
  しかし、此のエッセーでは二つの大シルクロードつまり「沙漠」と「海」のルート以外のシルクロードは無視させて頂いて話しを進める。

  岩壁に石の大仏や観音様、飛天等が彫り刻まれ、沙漠の洞窟の壁に色取り取りの仏の世界を描く等の異国の文化も中国に伝えられた。鳩摩羅什や玄奘等の高僧が仏教教典を漢訳して伝えたのも此の道である。西域の文物やもの珍しい習慣、風俗も「シルクロード」を通じて運び込まれた。
  胡姫と戯れ、彼女等の披露する胡旋舞、葡萄の美酒に酔っ払う等々の遊興が当時の中国の人々を其の異国情緒で妖しく酔わせた。李白は先ほどの詩、"銀鞍の白馬が落花を・・・”と長安の賑わいを詠った後に続けて"笑って入る胡姫の待つ酒肆の中へ”と。王維は詠う、"馬を繋ぐ高楼垂楊の辺に”。王翰は、"葡萄の美酒を夜光の杯に満たし、馬上に琵琶を奏でる・・・”と西域の風景や風習を涼州詩に詠んだ。

”葡萄の美酒夜光の杯・・・”「胡姫待つ酒肆」