長女相続の風習

  ”古代エジプトでは第一王女{長女}相続が行われ、親の持つ財産や権力は全て、第一王女に受け継がれる習慣が守られた”事は前ページ”クレオパトラ女王の華麗な戦い”欄に記した。”王国の全財産と王国を統治する権益”を持つ長女は第一王妃に即位し、彼女の夫は彼女の持つ権利を借りてファラオとして国を治めた。つまり、「假権」で在る。此の風習によって古代エジプトでは兄妹或いは、姉弟の間の結婚風習が常に行われ、稀に父娘婚や母子婚も記録に残る。唯一女性ファラオとして周辺諸国や遠方の国々と平和外交を結び、交易によって国を富ませたハトシェプスト女王の夫は義息トトメス三世で在った。トトメス三世は義母で妻のハトシェプスト女王の死後はファラオ位に就き、彼女の長女ネフェルウラーを第一王妃として共同統治を行った。
  九十歳まで生きたラムセス二世は、第一正妃ネフェルタリの他にも沢山の王妃や側室を迎え、百十一人の王子と六九人の王女を生うけた。王妃ネフェルタリの死後、実娘メリトリアメンと父娘結婚をして娘の持つ王国支配の権利を借りてエジプト最大のファラオとして君臨したのである。第一王妃のネフェルタリの死後は、彼女の持っていた王国支配という権利は娘に相続され、エジプト最大のファラオと云えども娘の権利を借りて王国を支配せねば為らなかっのである。

「美女惚けの旅」巻三”環肥燕痩”
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  第一王妃の持つ権利と其れを假権して得たファラオの財産や権益も第一王女に相続された。更に、假権して築いたファラオの財産や権益は第一王妃が生存中は、彼女とファラオの共有資産と為る。此の習慣故に、クレオパトラと結婚したカエサルは”ローマをエジプトに売り渡した”としてまた、アントニーもクレオパトラとの結婚したが為、ローマ元老院から追放され、オクタビアヌスに滅ぼされなければ為らなかったので在る。

  此の様に、娘が母や父から譲り受ける諸権益をファラオが借用して国家を統治しようとすれば、彼女と共同統治者つまり、結婚して夫に為る以外に方法は無い。逆に言えば、第一王女が第一王妃という地位に即位してファラオと共同統治者に為るという事である。

ツタンカーメンとアンケセナーメン

ネフェルテイテイ像

「屁放き爺さん美女捜しのお噺」

巻二の3

王妃が結んだ世界初の平和条約

.  前出のエジプト最大のファラオ・ラムセス二世の第一王妃ネフェルタリは当時、エジプト最大の強敵ヒッタイト王ムワタリの王妃ダヌヘパと交わした文通によって、ガデイッシュの戦い{公元前一二八五年、シリアの帰属をめぐってエジプトとヒッタイトが戦った世界初の超大国同士の戦いで、結果はエジプトが敗北した}以来の二大国間の冷戦を終結させ更に、ムワタリの後を嗣いだ弟ハットゥシリ三世との間に、世界初の平和条約を結ばせてオリエント世界や東地中海に平和をもたらした。
  古代エジプトでは第一正妃はファラオ以上の権力と財力を持ち、尊敬を集めていた。実際、ガデイシュの戦いには彼女も戦車隊を率いて参戦したと云われる。また、同様にアクテイウムの海戦にはクレオパトラ7世もエジプト海軍の軍船を率いて参戦したが戦いの途中、彼女の退却が原因で戦いに敗れたと伝えられる。

  キリスト教的価値観に考察仕様を支配されている歴史学者はイスパニア王国のイザベラ女王とフェルナンド二世の共同統治つまり、「Tanto Monta{タントモンタ、二人は平等、同格}」を比したのかも知れない。”古代エジプトでは兄妹婚等、近親結婚によるファラオと王妃の共同統治が行われた”とする後年の、キリスト教価値観に基づく定義は「タントモンタ」とは大いに異なる。王と王妃という文言、にキリスト教的価値判断が当て嵌められて二人は夫婦である。肉体関係が伴う夫婦という関係で在ると定義される。父と娘の結婚・・・。不潔な、忌み嫌うべき近親相姦と為る。

  しかし、古代エジプトに於ける父娘婚や母子婚、兄妹婚や姉弟婚等、血縁結婚では実際に、”夫婦間の肉体関係が在ったか・”は疑問が残る。希に行われたかも知れないが、殆どの場合、その様な関係は無かったと筆者は想う。筆者は、夫婦という言葉を当て嵌めず、共同統治者という定義を与えたい。共同統治者で在るが故に、ファラオが起こす戦いに軍を率いて同行し、宿敵との平和条約締結を積極的に推し進める事が可能で在る権限を有し、”其れを推し進める事が出来た”と想像するのである。

第一王女に生まれたばかりに・・・

  長女相続の悲劇物語は様々な哀しみを、王権を相続せねば為らない第一王女の人生に及ぼした。有名なツタンカーメン王の妃、アンケセナーメンは早くに母を亡くして最初の夫は実父のアクエンアテンで在った。アクエンアテンの第一王妃は上に添付したエジプト最の美女と讃えられるネフェルテイテイで在る。ネフェルテイテイの死後はアンケセナーメンが相続した王国統治の権益を假権して、宗教改革つまり古来、王国の多神崇拝から太陽神アテン神だけを崇める一神教に改め、長年の王都で在ったテーベを捨ててアテトアテンに遷都をする。彼の試みは次代のファラオ、ツタンカーメン時代に信仰も王都も元に戻されるが。
  彼の死後、ファラオ位を嗣いだのが彼女の幼馴染みのツタンカーメンで在る。二人は姉弟の様に仲睦ましい王と王妃で在ったという。夫ツタンカーメンが死去した後、彼女の祖母テイイの兄で、祖父と孫以上の年の差がある神官アイと結婚を余儀なくされる。此の様に王権や国を相続する王女は飛んでも無い結婚劇を演じる事が多い。発掘されたツタンカーメンの棺に置かれていた矢車菊の花束は彼女が手向けたとされる。
  彼女の愛を今に物語る矢車菊の花束は、彼女の第一王女として生まれた為に絶えねば為らなかった悲劇を語り、哀しい一生の内の極めて短い幸せを三千年後の我々に伝えるのである。