くわな鋳物|鋳物の街 くわな|江戸時代から続く三重県桑名市の地場産業

鋳物の街 くわな くわな鋳物 〜三重県桑名市〜桑名の地場産業 鋳物(いもの)

東海道五三次で、日本橋から数えて42番目の城下町、 三重県桑名市
桑名の名物は、はまぐり、志ぐれが有名です.
また、桑名は古くから「鋳物の街」としても知られています。
普段何気なく使っている、鍋やガス器具、道路に設置された、車止めやマンホールふた
様々な鋳物製品が、私たちの生活にあふれています。

東海道五十三次の城下町 くわな


三重県北西部に位置する桑名市は、木曽川、長良川、揖斐川の三つの大河、木曽三川が 伊勢湾に流れこむ河口に面し、西に鈴鹿連峰、北に養老山系、東に濃尾平野が広がる、 水と緑に囲まれた豊かな自然に恵まれています。室町時代頃から通商の町であったと言われています。 江戸時代に、東海道五十三次の日本橋から数えて、42番目の宿場町となってからは、城下町、港町として陸路、 海路の交通の要衝として、栄えました。 熱田宿「宮の渡し」から、唯一の航路を渡ると、桑名宿「七里の渡し」に到着します。 海路を渡り、人や物資の輸送し、渡しの周辺は繁栄を誇っていました。

また、三つの大河を利用して、木曽の用材、美濃の米などが運ばれてきて、 桑名から各地に送るという流通の拠点となっていました。 歌川広重の版画、 東海道五十三次の桑名宿七里渡口には、大きな帆を持つ船と、海に浮かんだように 描かれた、城と石垣が描かれています。 そのような交通の要衝にあり、「くわな鋳物」はその利便性を生かして、桑名 およびその周辺で発展してきました。

くわなの蛤



桑名は古くから港町として開け、江戸時代には赤須賀(あかすか)地域を中心とする 漁業が営まれていました。中でも、桑名の特産として有名であったのは蛤(はまぐり) で、蛤を焼いて旅人に供する店が、桑名から四日市市富田にかけての東海道沿いに、 軒を並べていた様子が名所図絵に描かれています。

江戸時代にはすでに使われていた洒落言葉とされる、「その手は桑名の焼き蛤」とは、 うまいことを言ってもだまされない、その手は食わないというしゃれのことです。 焼き蛤は桑名の名物であり、殻付きの蛤を、枯れた松葉や松笠を燃やしながら焼い たものです。『東海道中膝栗毛』の弥次郎兵衛・喜多八も、桑名でこの焼き蛤を肴 に酒を飲んでいます。

木曽三川河口域には、広大なデルタ地帯が拡がり、生産性が極めて高い、豊かな海域でした。 日本一の生産量を誇った蛤は、殻が大きく、肉が充実し、淡美な味わいを特色として いました。色彩の美麗な殻は、桑名産をもって第一と賞され、貝合・貝絵・膏薬の 容器に加工されました。このように、「桑名の蛤」は一漁獲種としてばかりでなく 、この地の伝統文化の一端を形成してきました。

「蛤の焼かれて鳴くや 敦公(ほととぎす)」と、元禄時代に俳人・宝井其角が 富田庄茶屋(現在の富田三丁目)を通過の際、旅籠・尾張屋にて焼き蛤を食べ、 その風味を讃えて詠んだ俳句が其角句碑に刻まれています。

桑名の蛤は、昭和34年9月桑名を襲った伊勢湾台風を境に、その漁獲量は 激減しましたが、その後、長年にわたる関係者の努力により、大きく改善し、 現在では、広く各地へ出荷されています。

時雨蛤・志ぐれ蛤

時雨蛤は、煮蛤(にはまぐり)と称した蛤の煮付で、粒の揃った蛤に生姜を加え、たまり醤油でよく煮しめて、調理したものをいいます。時雨煮は、現在では、蛤以外の貝を使ったあさりの時雨煮や、牛肉の時雨煮など、生姜入り の佃煮全般をいうようになりました。この時雨蛤は、桑名城下で多く製造され、桑名城主より宮中をはじめ将軍へも毎年献上されたことが、『桑名志』、『桑府名勝志』に記載されているそうです。

なぜ志ぐれ煮と呼ぶようになったか、は諸説ありますが、いろいろな風味が口 の中を通り過ぎることから、「一時的に降る時雨に喩えて、時雨煮と名づけられた」 という説や、「時雨の降る頃が、最も蛤が美味しくなる季節だから」といった説があります。

江戸時代の料理書には、短時間で仕上げることが、時雨煮の作り方の特徴として記され ており、むき身をたまり醤油に入れて煮る調理法が、降ってすぐに止む、時雨に似 ていることから、とも言われています。

時雨煮は、志ぐれ煮とも呼ばれることがありますが、時雨の季節に桑名で宿を取り、 蛤の煮付けに、殊の外魅せられた歌人が、後撰和歌集にある、 「神無月ふりみふらずみ定めなき時雨ぞ冬の始めなりける」にちなんでこの料理 を風流に「志ぐれ煮」と名付けた、との説もあるようです。 「桑名の殿様志ぐれで茶々漬」と民謡にも歌われ、又、「時雨るゝや焼蛤の煮ゆる音」 【宝井 其角】の句で古くより、桑名の時雨蛤・志ぐれ蛤は、その趣のある独自の風味を もって食卓に上っています。

蛤と共に名産であったのは、「しらうお」で俳人松尾芭蕉も「あけぼのやしら魚白きこと一寸」 の俳句を、桑名市浜地蔵付近を訪れた際に詠んでいます。 しらうおは今でも1月から3月にかけて水揚げされています。

金属工業の神話

桑名市多度町にある「多度大社」は五世紀後半に創建され、御祭神の天津彦根命 (あまつひこねのみこと)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御子神で ある由縁から、伊勢神宮に対し北伊勢大神宮とも言われ、古くから「お伊勢参ら ばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と謡われています。また、天照大御神 が天の岩戸にお隠れになった際、刀・斧などを作って活躍した天目一箇命 (あめのまひとつのみこと)が別宮に祀られており、鋳物・鉄工をはじめとする 日本の金属工業の祖神、守護神として全国の金属工業事業者が参拝に訪れています。

信玄の陣鐘(じんしょう)

永禄4年(1561年)川中島の決戦に軍を進める武田信玄が、長野県芽野市の 寺に泊った際、天照大御神を奉安して戦勝を祈願し、高さ45cmの陣鐘を奉納したと 伝わっています。 この陣鐘には「文正元丙戌年(1466年)八月吉日、勢州桑名住、 辻内丹後守藤原家清作」との銘が記されていたとのことですが、太平洋戦争の際に、 仏器とともに供出されたため、無くなった今では残念ながら検証することはできません。 この逸話によれば、「くわな鋳物」は江戸時代以前に始まっていたことになります。

くわな鋳物 の起源

慶長六年(1601年)、徳川四天王の一人に数えられた本多忠勝公が、 伊勢国桑名藩十万石の初代藩主となりました。「くわな鋳物」は忠勝公からの 鉄砲の製造の命をうけ、藩の奨励策のもとで、本格的な、生産が始まったと 言われています。

東国一の勇士 初代藩主本多忠勝〜

桑名藩初代藩主本多忠勝公は、幼少より徳川家康に仕え、14歳で初陣、 その後もたびたび出陣し勇名をうたわれました。家康が秀吉の命により、関東へ入国したとき、 上総国大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町)10万石を領しました。

慶長6年(1601年)関ヶ原の戦いの功により、桑名十万石に転封されました。 忠勝は桑名藩主となると桑名城を修築し、天守・三の丸を完成させました。また町割にも着手し、 現在の町割りの大部分は、この時期につくられたと言われています。

忠勝は、井伊直政、榊原康政、酒井忠次と共に徳川四天王と呼ばれました。 五十数度におよぶ出陣にも、一度も戦傷を負わなかった、と言われています。

二代藩主本多忠正は、忠勝の長男です。天正18年(1590年)秀吉の北条 征伐の時に初陣を果たしました。この年、家康の長男で、天正7年(1579年)信長の命によって切腹させられた、信康の娘である、熊姫と結婚しました。 慶長15年(1610年)11月父忠勝の後を継いで、桑名藩主となりました。

豊臣秀頼に嫁ぎ、大阪城落城の際に助け出された、2代将軍秀忠の長女千姫は、元和2年(1616年)忠政の嫡子忠刻のもとへ再嫁しました。翌年、忠政は姫路 へ移封されました。

日本随一の青銅鳥居


江戸時代、桑名には朝廷より鋳物製造を許可された、辻内家をはじめと する三軒の「御鋳物師」(おんいもじ)が存在していたと伝わっています。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居・・・・」と里謡に歌われたという 春日神社の青銅鋳物の鳥居は、高さ約7m、幅約6mで、その堂々たる威容は、 旅人の目を驚かせたと伝えられています。

この鳥居は、寛文七年(1667年)当時の藩主松平家重公の命を受け、御鋳物師 辻内善右衛門尉藤原種次により 鋳造されたもので、桑名の名物として今も昔を物語ります。

他にも、神社仏閣の灯籠、梵鐘、鍋釜類、農機具が、「くわな鋳物」で作られました。

天下の奇祭 くわな石取祭


桑名の春日神社の石取祭は、江戸時代初期に始まったものといわれ、 桑名城下の町人や藩士が楽しみにしていた初夏の祭りです。祭車総数43台、 全国的に見ても単一の神社、一神事で、これほどの山車が一堂に会する祭りは、 非常に珍しいものです。

多くの祭車が並び、直径約40cmの真鍮製の鉦や、直径90cmに及ぶ大きな 太鼓を打ち鳴らし、「日本一やかましいまつり」と言われています。ドーンドーンドンドン (太鼓)チキチキ(鉦)と、太鼓と鉦が交互に奏でるリズムは、お祭りに参加する人々の 気持ちを昂ぶらせます。平成19年3月には「桑名石取祭の祭車行事」の名称で、 「国指定重要無形民俗文化財」に指定されました。

明治維新後の くわな鋳物

第15代桑名藩主松平定永は、江戸幕府老中として「寛政の改革」を断行した、 松平定信の嫡子でした。文政6年(1823年)定永は、白河藩主から桑名藩主 に転封されました。同時に、桑名から行田、行田から白河への三方お国替えが 行われました。

その後、安政6年(1859年)松平定敬(さだあき)が第18代桑名藩主 となりました。元治元年(1863年)4月、京都所司代となり、実兄である 京都守護職の会津藩主松平容保(かたもり)と共に、京都の治安を守りました。 幕末、鳥羽伏見の戦いで新政府軍と交戦し、定敬は将軍徳川慶喜に従い、大阪 から江戸へ撤退、東北地方を転戦して、最後は五稜郭で降伏しました。その間、 桑名藩の恭順派は、前藩主の遺児をたてて討幕軍に降伏し、無血開城して、桑名 は兵火をまぬがれました。

時代は明治に移り、それまで、朝廷の許可を必要とした鋳物の製造は、自由に 開業できるようになりました。鋳物も新時代を迎えましたが、すぐには新規開業 をする者はほとんどありませんでした。自由に開業できるとはいえ、そこには、 経験が必要であり、それまでの主従の関係も深いものがあったといわれています。 桑名では、明治20年頃に至って、10工場程度になりました。

くわな鋳物 の飛躍

古くから伝わる鋳物の技法のうち、天然産の砂を使って造形する生型法は、 新しい砂を補給しながら、鋳物を低コストで造れるために普及した製法です。 明治20年(1887年)、桑名に隣接する地域(現在の三重県三重郡朝日町小向) で生型法に適した鋳物砂が発見されたことによって、鋳物の大量生産が可能となり、 「くわな鋳物」が躍進する大きな原動力になりました。

この頃から、「くわな鋳物」は銑鉄を使用した鍋釜・焚口・アイロンなどの家庭用日用品 を生産するようになりました。

その後、明治36年(1903年)から、製麺機や水道器具など、機械鋳物の製造も始まり、 「東の川口、西の桑名」と呼ばれ、わが国の主要な鋳物産地へと成長しました。

昭和15年(1940年)頃まで、「くわな鋳物」は日用品を基盤として発達し、 機械鋳物の製造は少なかったのですが、太平洋戦争によって日用品の製造が禁止されて、 機械鋳物への転換を図ります。 「くわな鋳物」の発展に尽くした功労者たちを顕彰した「鋳造報国」の石碑が建立されたのはこの頃です。 それもつかの間、第二次大戦時には空襲により「くわな鋳物」は壊滅的な被害を受けました。 戦後は、復興をはかる中で、原料の銑鉄が手に入らず、航空機廃材のジュラルミンや 散乱するスクラップを集めて鋳造し、生活用品として需要の高い鍋釜に蘇らせるなど、 それまで持っていた技術を生かすことによって、「くわな鋳物」が復活することとなりました。

昭和25年(1950年)の朝鮮動乱を契機として特需の恩恵も受け、 鋳物製品の他、紡績製品、機械部品、精密機器など工業界全体が活発な生産活動を呈し、 ものづくりの基盤となる多くの産業が成長し今日に至ります。 中でも、琺瑯(ホーロー)鋳物やボールベアリングは桑名で考案された代表的 な製品です。

昭和40年代になると、「くわな鋳物」は家庭用・モーターのカバーなどの電気機械、 各種機械鋳物を中心に生産されるようになり、工場数は200数十に上り、 生産量も年間20万トン以上、年間生産金額は大企業を除いても300億円を上回る、 県下で最大の産業にまで成長しました。

鋳鉄製品ができるまで


その後、「くわな鋳物」は、オイルショックや海外製品の台頭、平成20年(2008年) リーマンショック以降の生産量の減少などの影響を受け、平成23年(2011年)頃には、 生産量は年間約3万トン、鋳物事業者は30社ほどに減少しています。  「鋳物の街くわな」では、たくさんの人が鋳物工場で働いたり、 鋳物に関連する仕事をしたりしていました。 鋳物を生産する際に必要な、原料となる銑鉄や鉄スクラップ、鋳型を造形するために必要な砂 、中子(なかご)、鉄を溶解する際の燃料となるコークス、などを取り扱う事業者、 鋳型を製作する際に必要な木型、アルミ金型を製作する技能者、などが桑名にはたくさんいました。 それらの事業者や技能者も年々減少してきましたが、技術、技能、ノウハウは脈々と 「鋳物の街くわな」の若い後継者に継承されています。

高付加価値で、高品質な鋳物を作る為に

三重県内の中小企業の技術革新・新商品開発支援を目的としている三重県工業研究所金属研究室は、昭和15年、鋳物工業の技術の振興と 発展を図ることなどを目的に設置されました。以来、付加価値が高く、品質の良い鋳物を作 るために、鋳物企業への技術支援を行うと共に、企業と一緒に新製品・新技術の研究開発 に取り組んでいます。 三重県工業研究所金属研究室は、技術支援では、材質、品質管理などの技術上の様々な課題に、アドバイス、技術提供等 の総合的な手段を用いて、課題解決を図っています。 研究開発では、新しい技術を適用した新製品の開発、新プロセスを適用した高品質な材 料の開発などを推進しています。 さらに、鋳物企業の技術者の育成を目的とした講座の実施、鋳物新技術・新製品の紹介 のための講演会、が 行われています。

「くわな鋳物」の事業者は、このような金属研究室を、自社の研究開発室のように活発に利用し、高付加価値で、高品質な鋳物作りに努力しています。

また、日本鋳造協会鋳造カレッジへの派遣や、技能検定鋳造技能士の国家資格取得も盛んに行われています。

それぞれの鋳物事業者が持つ得意分野を活かし、事業者間での連携も活発化しています。 近年では、交通・輸送の便もよくなり、最先端の鋳造設備、材料を取り扱う事業者が 全国から支援してくれています。 鋳物工場における造形も、鋳物職人が人手で行う造形や、自動造形設備による生型造形や、 自硬性鋳型、焼失鋳型、による最新の鋳造も行われています。 溶解も、昔ながらのキューポラから、最新型の電気炉まで幅広く、利便性に応じて 使用されています。 金型の製作は、従来の手作業からCAD・CAMで行う方法に変わり、新しい技術を利用した 事業者や技能者が育っています。

鋳物生産技術競技会

鋳物工業の振興及び鋳造技術の向上を図ることを目的に、昭和31年に第1回鋳物生産技術競技会が開催されて以来、今日まで毎年続けられています。第1回競技会は、鋳物工場より選ばれた造型担当者が、三重県金属試験場に一堂に会し、各人の技術を競う形で行われました。審査は作業時間、造型技術及び製品の出来映えについておこなわれ、競技を重ねるごとに、造型への習熟が増し、優秀な作品が作れる様になりました。 第18回競技会から、従来の個人単位の競技から、事業所単位の製品の品質を審査する競技に移行され、毎年の恒例の行事として開催されています。 第52回競技会からは、埼玉県の川口鋳物工業協同組合も参加し、両産地の技術交流の一環として『互いの技術を競い合う大会』となりました。 伝統の鋳物作りを後世に伝え続けるために、この競技会を継続していくこそが、何よりも大切だと考えています。

現在の くわな鋳物

「鋳物の街くわな」には、八間通りのマンホール蓋・九華公園の本多忠勝像・ 住吉入江にかかる玉重橋の高欄支柱・春日神社の鳥居など、沢山の鋳物が 「鋳物の街」をアピールし存在感を放っています。

現在「くわな鋳物」の種類は多岐にわたっています。デザインや機能性の優れた鋳物 の開発にも取り組んでいます。 カキ氷機・業務用ガスコンロなど全国においても大きなシェアを占めている商品が 多数あります。また、工作機械、電気機械、建設機械などの機械用の素形材鋳物や マンホール鉄蓋などの土木建設用鋳物の生産を行っています。

「鋳物の街くわな」で生産された「くわな鋳物」は、国内はもとより、商品として、 あるいは輸出する機械の部品となって世界中で使用されています。

鋳物の街くわな巡り


お問い合わせ・リンク

「鋳物の街 くわな」 「くわな鋳物」に関するお問合せ先


桑名商工会議所 総務課
〒511-8577
三重県桑名市桑栄町1-1
  電話 0594-22-5155
  FAX 0594-21-5156
  

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